不惜身命 不屈の闘志で苦難を乗り越えた盲目の高僧 鑑真(唐)(3) 漂流
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――たれもゆかぬというのなら、われがゆくまで。
天宝2年(743年)、55歳の鑑真和上はそう述べて、
仏法を伝えるために日本への渡航を決意した。
弟子たちも師に随うことになったのであるが、
弟子どうしのいさかいから出航前に密告があり、失敗に終わった。
その影響で、日本への渡航を取りやめた同行者が少なくなかった。
だが、鑑真は日本への渡航をあきらめていなかった。
中国史人物伝シリーズ
目次
二回目
栄叡と普照が、鑑真を訪ねてきた。
かれらが釈放されてから数か月が経った天宝二年(七四三年)の冬のことである。
「大和上におかれましては、いま一度日本へおこしいただけませんでしょうか」
「もとより、そのつもりじゃ」
ふたりからの要請に、鑑真がそう応えると、栄叡と普照は顔をほころばせた。
そのようすに胸を熱くした鑑真は、軍用船一隻を購入し、十二月に長江をくだって外海にでた。
ところが、暴風に遭って座礁してしまい、官船に救助され、明州(寧波)の阿育王寺に保護された。
それでも、鑑真は日本への渡航を諦めていなかった。
こうして、二回目の渡航も失敗に終わった。
三回目
翌年(七四四年)、鑑真は、ふたたび栄叡および普照と日本への渡航を企てた。
しかし、準備にはいるまえに、栄叡がふたたび逮捕され、投獄されてしまった。
――栄叡が、鑑真を日本へ連れ去ろうとしている。
という密告があったらしい。
栄叡は枷をつけられ、都へ護送されてしまった。
――なんとかせねば――。
鑑真は、栄叡を助けるために奔走した。
そのかいあって、一か月後に栄叡は釈放された。
四回目
栄叡が阿育王寺にもどってくると、鑑真は普照も交えて日本への渡航について話しあった。
「このあたりの監視が、厳しくなっております」
「ならば、福州から出航するというのはどうか」
鑑真は、まず二人の弟子を台湾の対岸にあたる福州へ先にむかわせ、船の準備をさせた。
ついで、鑑真みずからが栄叡と普照ら三十余人を率いて、
「天台山に参る」
と、称して南のかた福州へむかった。天宝三年(七四四年)の冬のことである。
ところが、その途中で、鑑真は役人に捕らえられ、
「どうかこれ以上無茶はなさらずに、お戻りいただきたい」
と、告げられた。
「仏法のためじゃ、通してもらえまいか」
鑑真がそう抗弁すると、
「霊佑どのからお引きとめするよう頼まれたんです」
と、返された。
「なんと――」
鑑真は耳を疑った。霊佑は鑑真の高弟である。
鑑真が命がけの密航を敢行するのであれば、弟子たちもついてゆかなければならない。
それを厭う弟子もいたのである。
――わがおもいが弟子に伝わっていなかったとは……。
鑑真は、おのれの不徳を恥じるしかなかった。
結局、鑑真は揚州まで連れ戻されてしまった。
その後、鑑真は律の講義や弟子の授戒に勤しんだ。
しかし、胸裡では日本への渡航を秘めていた。
五回目
出 航
天宝七年(七四八年)の春、揚州の崇福寺にいた鑑真を、懐かしい顔ぶれが訪れた。
栄叡と普照である。
「久しいのう」
「四年ぶりになります」
鑑真が福州で捕まったとき、ふたりは逃亡し、消息不明であった。それ以来の再会である。
「ときに大和上、いま一度日本へおこしいただけませんでしょうか」
「むろんじゃ、一日たりとも渡海を忘れたことなどなかったわ」
栄叡と普照からの渡航要請にたいし、鑑真が間髪いれずにそう返すと、三人は顔をみあわせて哄笑した。
このとき、鑑真は六十一歳になっていたが、気もちはまったく衰えていなかった。
ふたりの不屈の精神に胸をふるわせた鑑真はさっそく船を準備すると、六月二十七日、三十五人を率い、
夜陰に紛れて揚州に新しくできた運河から長江へ出航した。
海南島
一行を乗せた船は、外洋に出ると強風に遭い、越州の小島である三塔山に至り、そこで順風を待った。
一か月ほどとどまってから、順風を得て出帆したが、
大海に出るにつれて風が強くなり、海が荒れ、船が流された。
百日を超える漂流の末、鑑真らを乗せた船が流れ着いたのは、日本ではなく、振州であった。
振州は、ベトナムに近い海南島の南西部にあたる。
海南島は現在でこそリゾート地として知られるが、当時は配流の地であった。
突如としてあらわれた名僧の一行を、島の人びとは歓んで迎えいれてくれた。
鑑真はこの熱帯の島にある振州の大雲寺に一年以上滞在し、
荒廃しつつあった寺を修復したり、現地の人びとに仏法や医薬の知識を伝授したりした。
訣 れ
天宝八年(七四九年)、鑑真は海南島を発ち、揚州へむかった。
その途次に栄叡が体調を崩し、日本への帰国がかなわぬまま端州の竜興寺で世を去った。
長年労苦をともにした仲間の死に、鑑真は慟哭し、
「わしはきっと日本へゆく」
と、ものいわぬ栄叡に語りかけた。
さらに、広州から水路を進み、韶州に至ったところで、
「栄叡の霊を慰めとう存じます」
と、普照がもうしでて、鑑真のもとを去り、阿育王寺へむかった。
すでに三十六人の弟子がこの世を去っていた。
なおも凶事がつづく。
このころ、祥彦がからだの不調を訴えだした。
暑熱が、弱ったからだをむしばんでいった。
大廋嶺を越え、吉州に至ったところで、祥彦が念仏を唱え、端座したまま、動かなくなった。
「彦、彦――」
鑑真は、またも慟哭した。
さすがに、片腕とも恃んでいた愛弟子の死はこたえた。
暑熱と過労から失明したのも、このころであったとされる。
この長旅で、多くの弟子たちが世を去っていったり、あるいは鑑真のもとから去っていったりした。
それでも鑑真は志を枉げず、各地で講律授戒をおこないながら、
天宝十年(七五一年)に、ようやく揚州に戻ることができた。
五度の失敗で経済的にも厳しくなったことから、状況を立て直すことに決めた鑑真は、
龍興寺、崇福寺、大明寺、延光寺(近光寺とも)に住み、講律授戒に勤しんだ。
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