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中国史人物伝

一旦緩急 文帝に直諫し、景帝から頼られた俠士 袁盎(爰盎)(前漢)(3) 窮境

袁盎(1)はこちら>>
袁盎(2)はこちら>>

袁盎は相手が重臣であろうと皇帝であろうと忌憚なく意見するような剛直さを貫くか

とおもえば、気難しそうな呉王の劉濞に気にいられるという世渡り上手な面もあった。

そんな袁盎にも、そりの合わない高官がいた。

晁錯(鼂錯または朝錯)である。

かれは皇帝の絶大な信頼を背に、ことあるごとに袁盎を亡き者にせんとする。

この絶対絶命の危機に、袁盎はどう対処するのか――。

中国史人物伝シリーズ

目次

削藩策

太子の劉啓は、太子家令となった法家の官僚 晁錯(鼂錯または朝錯)を寵幸した。
袁盎は晁錯と折り合いが悪く、
晁錯がいれば同坐を避け、晁錯のほうも袁盎がいれば同坐を避ける、
という具合に、ふたりが同じ堂で語らったことはなかった。
紀元前一五七年に文帝が亡くなり、劉啓が即位した。これが、景帝である。
ついで丞相の申屠嘉が亡くなると、景帝は晁錯を御史大夫(副首相)に任じた。
すると、袁盎は呉王から財物を受けたかどで罪に抵てられてしまった。
だが、詔により赦され、庶人となった。
景帝は晁錯を篤く信頼し、即位して三年目にその意見を容れ、諸侯王の領地を削減する政策を採った。
それに反発したのが、呉王の劉濞であった。
紀元前一五四年、劉濞は、楚王・趙王・済南王・淄川王・膠西王・膠東王の六王を誘い、
王都の広陵で叛旗を翻した。

擯 斥

竇 嬰

呉楚七国の謀反が上聞されると、袁盎は、
「晁錯が、あなたを取り調べようとしておりますぞ」
と、ある者から告げられた。
――さもありなん。
と、恐れた袁盎は、夜を待ってから竇嬰のもとを訪れ、
「主上の御前で、呉が謀叛に至ったいきさつを申しあげとう存じます」
と、申しいれた。
竇嬰は竇太后の従兄の子であるが、袁盎と親しかった。
ともに俠気があり、呉の丞相を務め、晁錯と間隙があるという点でも共通しており、
袁盎と竇嬰はたがいに通じるものがあったようである。
ほどなく、袁盎は景帝からお召しをうけた。

人払い

袁盎は宮中に参内し、景帝に謁見した。そのかたわらには、晁錯がいた。
「君はかつて呉の宰相であったな。いま、呉楚がそむいたが、公の意見はどうか」
景帝からそう諮われ、袁盎は、
「ご心配には及びません。いまに破れましょう」
と、楽観を述べた。だが、景帝はいぶかり、
「呉王は銅山で銭を鋳造し、海水を煮て塩をつくり、天下の豪傑を誘い、
白頭まじりになってから事を起こしたんじゃから、計が百全でなければどうして決起しようか。
なにゆえ取るに足らないなどと申すのか」
と、叱るようにいった。
「呉には銅や塩の利はございますが、豪傑を手にいれることなどできましょうや。
豪傑を得たとしても、王を輔けて道義を通し、そむかないようにさせましょう。
呉が誘うたのはみな無頼の子弟で、亡命して銭を私鋳するよこしまな連中ばかりであり、
それゆえ誘いあって乱を起こしたのです」
袁盎が平然とそう申しあげると、
「袁盎の策は、よろしいと存じます」
と、晁錯が口をはさんだ。
「どう対処すればよいじゃろう」
景帝からそう問われ、袁盎は晁錯を一瞥し、
「お人払いを」
と、願いでた。
「退がれ」
景帝の命で侍臣たちが退出し、晁錯だけが残った。
「これから臣が申しあげることは、人臣に知られてはならないのです」
袁盎がそう強くいうと、景帝は顔を動かして晁錯に退がるよううながした。
晁錯は袁盎を睨めつけながら趨走し、退出していった。

二者択一

「これでよかろう」
と、景帝はいい、袁盎に意見をうながした。
「呉楚は書を送りあい、高皇帝(劉邦)が子弟に地をわけて各地の王に立てたのに、
いま賊臣晁錯はほしいままに諸侯のあらをさがし、封地を削奪している、と申し、
西行してともに晁錯を誅す名目で反乱を起こしました。それゆえ、故地を復せばやめましょう。
目下の計としましては、晁錯を斬り、
使者を発して呉楚七国を赦し、故地を復せば、兵は刃に血ぬらずにすみましょう」
袁盎のこの発言に、景帝は黙然となったが、ややしばらくして、
「一人を惜しんで天下に謝るなど、できぬ」
と、声をしぼりだすようにいった。それにたいし、袁盎は、
「愚計はもう披露いたしました。主上には、よくお考えいただきますよう」
と、突き放すようにいった。

東 帝

十日あまり経ってから、丞相の陶青らが、
「晁錯を腰斬の刑に処するべきです」
と、上奏し、晁錯を弾劾した。
こうなると、景帝も裁可するしかない。
晁錯は何も知らぬまま召しだされ、朝衣のまま東市で斬られた。
直後に、袁盎は奉常(祭礼担当大臣)に任じられ、和睦の使者として呉へ往くよう命じられた。
かれが呉へ至ったのは、呉楚の兵が梁の城壁を攻めはじめたあとであった。
袁盎が会うことができたのは、東帝を自称していた劉濞ではなく、五百人の呉兵であった。
袁盎は兵たちに取り囲まれて、
「わが将にならないか」
と、強迫されたものの、臆せず、
「お断りします」
と、言下に拒絶した。
袁盎は捕えられ、監禁された。

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