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中国史人物伝

君子なるかな蘧伯玉(蘧瑗、遽伯玉)(春秋 衛) 孔子に敬仰された賢大夫

孔子は衛に逃れたとき、蘧伯玉を頼ったといわれる。

蘧伯玉は国が治まっていれば才能を発揮したが、

国が乱れると辞職して才能をひけらかそうとしなかった。

その出処進退のみごとさに、

――君子なるかな、蘧伯玉(『論語』衛霊公)。

と、孔子は感嘆した。

孔子が敬意を払った人物として『論語』に登場するわりには、

史書への登場が少ない蘧伯玉。その実像は?

中国史人物伝シリーズ

目次

瑗と玉

蘧伯玉は衛の大夫で、名は瑗(伯玉は、あざな)。
あざなは、成人時に諱(実名)と関連のある字をつける。
瑗は佩玉で、腰帯にさげた装身具である。
もとは悪気から身を護るためのものであったが、周代には君子の必需品になっていた。
伯は、嫡出の長男をいう。
“蘧氏の御曹司”といったところであろうか。

政 変

紀元前六世紀半ばの中原では、いずれの国も君主に実権はなく、卿とよばれる大臣が国政を動かしていた。
衛も例外ではなく、献公は君主でありながら、実権を重臣の孫林父に握られ、腹立たしくおもっていた。
紀元前五五九年、こらえきれなくなった献公は、孫林父と甯殖を食事に誘っておきながら、
その約束を反故にした。
「君の暴虐ぶりは、あなたもご存知の通りです。このままでは社稷が傾くのではないか、
と大いに懼れております。いかがいたしましょう」
蘧伯玉は、孫林父からそう問われた。
――卿は、異志をいだいている。
蘧伯玉は、孫林父の真意をさとり、
「君が国を治めておられるのですから、どうして臣が奸しましょうか。
奸したところで、今よりよくなるとはおもえません」
と、同調することを拒み、都を出て国外へ逃れた。
孫林父の陰謀に加担しないことを表明したのである。
孫林父が蘧伯玉に声をかけたのは、その背後にある世論を気にしたからであろう。
蘧伯玉は、衛国の良心ともいえる存在であった。
孫林父は、蘧伯玉が味方にならないまでも敵に回らなかったことに安心したのか、決起した。
献公は、斉へ亡命した。
孫林父と甯殖は、献公のいとこにあたる公孫剽を君主に擁立した。これが殤公である。
蘧伯玉は、内乱が終息してから衛に復帰した。

献公の復帰

「出国なされた君(献公)をお迎えしたい」
蘧伯玉は、甯喜(甯殖の子)からそう告げられた。
ときに紀元前五四七年、献公が亡命してから十二年が経っている。
「われは君が出国なされたとは承らなかったので、なにゆえお帰りになられるのかわかり申さぬ」
蘧伯玉はそういって、近くの関所から国外へ出た。
十二年前と同様のことをしたのである。
――献公が出国したとは聞いていない。
これがいったん国外へ逃れた蘧伯玉が、内乱終息後に復帰した理由なのであろう。
献公の復帰の障碍になるのは、孫林父の存在である。
このとき、孫林父は食邑の戚にいた。
それ幸いとばかりに、甯喜は孫氏邸を襲った。
孫林父は、晋へ奔った。
甯喜は孫林父の亡命を聞くと、殤公を殺し、献公を迎えいれた。
このときも、蘧伯玉は内乱が終息した後に衛に復帰した。
この行蔵も、前述と同様の理由によるものなのであろう。

君 子

紀元前五四四年、呉王句餘の特使として中原諸国の歴訪中の季札が、衛を聘問した。
父や兄たちから幾度となく王位に即くことを嘱望されながらも頑なに拒み続けた季札は、
寡欲で清節を貫いた義の人として声望を高め、天下に称賛されているうえに、古来の儀礼にも通じ、
博識の君子としても知られた。
季札は蘧伯玉、史狗、史魚、公子荊、公叔発、公子朝に会い、その人物を悦び、
「衛には君子が多い。まだ患いはないでしょう」
と、いった。

史魚屍諫

――直なるかな、史魚(『論語』衛霊公)。
史魚は、孔子からそう称賛された人物である。
『孔子家語』(困誓)に、つぎのような逸話がある。
衛の霊公(献公の孫)は、弥子瑕を寵愛していた。
「弥子瑕を斥け、蘧伯玉を用いますよう」
史魚は幾度となく霊公にそう諫言を呈したが、まったく聴きいれられなかった。
「生きて君を正すことができなかったんじゃから、死後は礼に法らなくてよい。
われが死んだら、屍を牖(窓)の外に置け」
臨終の際、史魚は子にそう命じた。
史魚が亡くなり、霊公が弔問に訪れた。
はたして、屍体が窓の外に放り出されていたことをいぶかり、わけを問うた。
遺子の言を聞いて霊公はようやくおのれの過ちを知り、弥子瑕を退け、蘧伯玉を重用したという。
史魚屍諫
という語は、この話から生まれたものであるが、
話の真偽はともかく、孔子は史魚のまごころが霊公を感動させたとして、
――直といわざるべけんや。
と、激賞した。

知 非

――蘧伯玉は、年五十にして、四十九年の非有り。
と、『淮南子』(原道訓)にあるが、かれのような君子でも後悔し、反省することが多いらしい。
孔子が天命を知った五十歳(『論語』為政)になってはじめて、
それまで生きた四十九年間の過ちがわかると、蘧伯玉は述懐した。
かれが非凡なのは、なおも徳の道を求めつづけ、
――六十にして六十化(『荘子』則陽篇)。
したようであるから、自己に厳しく、おのれの行蔵から決して目をそむけなかったのであろう。
何年生きても、
「これで、よし」
と、妥協してはならない。この考えは、
「転了転参」
なる禅語に通ずるものがあろう。
生きている限りは、絶えずおのれをみつめ、成長しつづけなければならない。
耳の痛い話である。

孔子との接点

蘧伯玉と孔子との間に交流があったような記述が、『論語』や『礼記』などにみられる。
孔子は紀元前五五一年に生まれたが、蘧伯玉はそれ以前からすでに史書に登場している。
蘧伯玉がたとえ長寿に恵まれたとしても、孔子と交流があったとは考えにくいのであるが、どうであろうか。

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