古の遺直 該博の賢人 叔向(春秋 晋)(1) 国君の後見人
金持ちで
賢くて
世界的に有名で
美女と結婚した
ような貴公子がいたとすれば、どんな思いを抱くであろうか。
うらやましい、と憧れるであろうか。
それとも、嫉視するであろうか。
あるいは……
そんな目でご覧いただければ
中国史人物伝シリーズ
目次
国君の傅
叔向は、晋の大夫 羊舌肸のあざなである。
羊舌氏は、晋の武公から岐れた名家で、羊舌という氏はこの家の采邑から採られたといわれる。
かれは、晋のさいごの名君と呼ばれた悼公から太子彪の傅(守り役)に任じられた。
――羊舌肸は、史実に通暁している。
という司馬侯(汝叔斉)の推挙によるものである。
紀元前五五八年、悼公が亡くなり、太子彪が即位した。平公である。
三十歳という若さで亡くなった悼公の子が、独りで聴政ができる年齢に達しているわけがない。
そうなると、平公の後見人として叔向の発言力が大きくなり、宰相でさえ大事を叔向に相談するほどであった。
その結果、羊舌氏は、上大夫として卿(大臣)に次ぐ勢力を有することになる。
叔向は、平公のすすめで、申公巫臣の女を娶った。
叔向の妻となった女の母は絶世の美女として名高い夏姫であり、
かの女自身も母に劣らぬ美貌の持ち主で色香も備えていた。
禍福は変転するものなのであろうか。
花顔の婦を娶り、得意の絶頂にあった叔向に、政争が襲いかかる。
投 獄
平公六年(紀元前五五二年)、宰相の士匄が欒盁を追放し、その一味を掃討した。
この内乱で、叔向の弟である羊舌虎(叔虎)が欒盁に味方して戦死してしまった。
――羊舌氏は、欒氏の一味であったか。
士匄は怒り、叔虎の兄である伯華(羊舌赤)と叔向を謀叛の罪で捕えた。
「なんじは罪にかかってしもうた。不知といえよう」
と、叔向をからかう者がいた。叔向は、
「殺されるよりましであろう。『詩』に、のんびりと天寿を全うしよう、とある。それでこそ知者といえよう」
と、冷静に返した。
平公の寵臣である楽王鮒が、
「われが何とかしてさしあげよう」
と、恩着せがましくいってきたが、叔向は無言を貫き、目を合わせようともしなかった。
その態度に楽王鮒が怒って去っていったが、叔向は拝礼すらしなかった。
家臣たちに非難されても、叔向は、
「祁大夫(祁奚)が、必ずわれを助けてくれよう」
と、まったく意に介さなかった。
祁奚は叔向の父である羊舌職の上司で、十八年まえに致仕(引退)した。
その際、才覚があれば讎敵や子でさえも後任に推挙した公正な人であった。
父の後任に伯華を推挙してくれたのも、祁奚であった。
祁奚は、兄を視てくれていた。
――われのことも視てくれているはずだ。
叔向は、そう信じていた。
囚われの身になった叔向を、たれも弁護したり救解したりしない。
特に首をかしげてしまうのは、平公の行蔵である。
「肸にも罪があるのか」
と、楽王鮒に諮うたのが、『春秋左氏伝』に記されたかれの言動である。
逮捕された師を救解すべき立場にあるにもかかわらず、士匄を憚って傍観者を決めこんだ。
英邁な父に肖ず、人情を欠いた暗君であったとしかいいようがない。
いや、叔向が教導した結果がそれなのであれば、自業自得かもしれない。
ともかくも、君主が叔向を見放したくらいであるから、群臣はなおさらであろう。
賢くて家柄がよく、美女を妻にした貴公子に対し、かれらがどうおもっていたのかは、想像に難くはない。
ところが、しばらくすると、叔向は釈放された。
祁奚が士匄を説得してくれたのである。
祁奚は叔向の釈放を見届けずに帰り、叔向も祁奚に礼をいわずに参朝し、政務に復帰した。
弭兵の盟
紀元前六三二年の城濮の戦い以来、北の晋と南の楚という二大国が中華の覇権をめぐって長く争っていた。
だが、天下に和平の気運が高まった。
平公十二年(紀元前五四六年)、宋の向戌の仲介により、晋の宰相の趙武と楚の令尹(首相)の子木が会盟し、和睦することになった。
その際、晋と楚が犠牲の血を啜る順番の先後を争った。
牛耳を執る、ということばがあるように、先に犠牲の血を啜る方が上位にあたる。
「諸侯は、晋の徳に帰服しております。会盟を仕切っているから帰服しているわけではありません。
あなたは徳を務め、先を争ってはなりませぬ。
楚が晋より細っていながら盟主になったとしてもよいではありませんか」
この叔向の進言を趙武が容れたため、楚が牛耳を執ることになった。
子木は帰国し、康王に復命した際、
「晋が覇者になっているのは、もっともなことです。叔向が卿(大臣)を輔佐しております。楚にはそのような人物がおりませぬ。晋と争うことはできません」
と、ことばを添えた。
予 言
平公十四年(紀元前五四四年)、君子として名高い呉の季札が、晋を聘問した。
滞在中、かれは要人と相次いで会談したが、中でも趙武、韓起、魏舒という三人の大臣の人物を悦び、
「晋国の権力は、きっとこの三族に集中することになりましょう」
と、予言した。
事実、後に晋は趙、韓、魏の三国に分裂し、戦国時代に入るわけであるから、この予言は中たったことになる。
当時、予言を的中させた人は、聖人と讃えられた。
ほかにも多くの予言をして的中させた季札も、その一人に挙げられよう。
季札は、叔向とも会談した。叔向の人物を悦んだ季札は、晋を去る際に、
「あなたは直言を好まれるゆえ、必ず禍難から免れるよう気をつけなされよ」
と、忠告した。
――あなたのことを快くおもわない人が多い。
そう見抜いた季札の予見力は、人知を超えていたのかもしれない。
実沈と台駘
平公十七年(紀元前五四一年)、平公が罹病した。
――実沈と台駘が、祟りをなしている。
これが、卜人(占者)の見立てであった。
実沈と台駘は、神の名のようであるが、史官ですらわからない。
そのようなおり、鄭の宰相である子産が平公の見舞いに訪れた。
子産は、当時叔向とともに天下の賢人として知られていた。
子産が見舞いを終えて退出すると、叔向が追いかけて、
「実沈と台駘がどんな神かご存知ですか」
と、たずねた。
子産は実沈と台駘について説明し、ともに祟りをなすような神ではない、と述べ、
「男女の姓が違うことが、礼の大節です。いま、君の閨中には、四人も同姓の女人がおります。
ご病気の原因は、これではないでしょうか」
と、指摘し、姫姓の女人を閨中から去らせるよう勧告した。
「ごもっともなことです。よい話をきかせていただきました」
叔向は感嘆し、子産がいった通りにすると、平公の病は平癒した。
これだけをみれば、叔向より子産のほうが博識であるということになろう。
もっとも、叔向が実沈と台駘について知っていながら知らないふりを決めこんで、
子産に語らせたのであれば、なかなかの役者であるのかもしれないが……。
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