暗君に仕える能臣の悲哀 昭雎(戦国 楚)(1) 暗転
この国を紀元前四世紀後半に治めた懐王のもとには、昭雎をはじめ、
『楚辞』で知られる屈原や、「蛇足」の語を発した説客の陳軫ら数多の能臣がいた。
同じころ、商鞅の改革により富国強兵を果たした秦が隣国をしきりに侵食していた。
強くなる一方の秦に対抗するため、楚は斉と組み、合従策を模索した。
それを崩さんと、秦は縦横家の張儀を重用し、連衡策を展開した。
その張儀が、秦から懐王のもとにやってきた。
合従か、連衡か?
懐王の決断は――?
中国史人物伝シリーズ
目次
楚王朝
楚は、周の天下を否定し、四十二(『呂氏春秋』では三十九)もの国を滅ぼして強大な王国をつくりあげた。
実力本位の戦国時代にはいっても楚は侵略の手を緩めず、紀元前四世紀には長江下流域を領した越を滅ぼし、
戦国七雄のうち、最大の版図を有した。
桓譚の『新論』によると、首都の郢のにぎわいは、車の轂がぶつかりあい、
肩と肩がふれあって、朝に着ていった服が夕には擦り切れてしまうほど街路が混みあったらしい。
楚の政体は神聖王朝であり、首相にあたる令尹には主に王族が任じられた。
八百年続いたこの王朝で、令尹になった異邦人は、彭仲爽と呉起のみであった。
そのような状況であったので、戦国時代においても楚は旧態依然のままであった。
覇権が目まぐるしく入れ替わった中原では時代の変化に対応するために他国の頭脳を必要としたが、
楚の一強状態が続いた南方では旧来の慣例を遵奉することで秩序が保てたのであろう。
西方の秦も同様であったが、孝公が商鞅を抜擢して変法を敢行させ、富国強兵を成し遂げた。
この目醒めた国の勢力が、旧態依然の弊害に気づかぬままの楚に触手を伸ばそうとしていた。
昭 氏
昭氏は、楚の昭王から岐れた名族である。
昭王は平王の子で、呉王闔閭に攻められて首都の郢から脱出し、逃亡した王といえば通りがよいであろうか。
伍子胥が父と兄を誅した平王の屍体を笞打ったのも、このときである。
昭氏で史書に最初に名がみえる人物は、昭奚恤である。
「虎の威を借る狐」
の語で知られるかれは、紀元前四世紀なかばの宣王のときに令尹となった。
昭雎は、宣王の孫にあたる懐王に仕えた。
懐王を輔けた令尹の昭陽は、説客の陳軫に「蛇足」の譬喩で説述された人物である。
まぎらわしいことに、昭陽も昭雎もともに昭子と呼ばれる。
懐王の時、楚は諸国と交戦し、はじめは版図を拡げたが、
のちになるとむしろ攻め込まれるようになり、多くの領土を失ってしまった。
その端緒となったのが、名高い縦横家の舌であった。
張 儀
欺 罔
懐王十六年(紀元前三一三年)に、秦の宰相である張儀が楚を訪れ、
「斉と絶交すれば、商・於の地方六百里をさしあげましょう」
と、持ちかけて懐王の歓心を買った。
懐王は大喜びし、即座に斉と断交し、帰国した張儀のもとに使者を遣り、約束の地を受け取りに行かせた。
しかし、張儀が楚の使者に、
「ここをさしあげます」
と、告げて示したのは、方六里の地であった。
「おのれ、張儀め。たばかったな」
怒った懐王は、翌年に大軍を発して秦軍と丹陽で戦ったが、大敗し、漢中を失った。
懐王はさらに怒り、国じゅうの兵をかき集めて再度秦に攻め込んだ。
ところが、楚軍は藍田でまたも大敗した。
秦楚両国の力関係は、完全に入れ替わってしまった。
暗 君
かつて張儀は仕官を求めて楚に遊説した際に窃盗の罪を着せられ、打擲されて死にかけたことがある。
その恨みを、秦の強兵を利用して晴らすことができて溜飲を下げたであろう。
それにひきかえ、張儀の意図を見抜けず甘言に釣られた懐王の愚昧さはどうであろう。
ものごとの表面しかみることのできない暗君を、陳軫ら有能な人材がつぎつぎと見限り他外へ散った。
しかし、王族である昭雎が祖国を棄てることなどできない。
実は、昭雎は張儀と仲がよかった。
秦を訪ねた際、張儀から陳軫を追放するよう使嗾されたことがある。
二度の大敗後、張儀への怒りを解いた懐王は、
「張儀が秦でさらに重用されるよう働きかけよ」
と、昭雎に命じた。
ところが、秦の恵文王が亡くなり、張儀が秦を逐われると、懐王は一転して昭雎を捕らえようとした。
張儀を憎む斉の歓心を買おうとしたからである。
このあたり、懐王には思考の一貫性がみられない。
これも時代のなせるわざなのであろうか。
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