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中国史人物伝

孔明に泣いて斬られた 馬謖(三国 蜀)(2) 衒気

馬謖(1)はこちら>>

兵略を論ずれば右に出る者はいないのに、実戦で取り返しのつかない失態を犯してしまった。

この点で、馬謖は戦国時代の趙の趙括に比せられることがある。

趙括には、名将と謳われた父の趙奢に対するコンプレックスがあった。

馬謖も、

“白眉”

と、もてはやされた兄の馬良に幼少期から劣等感をいだいていた。

それが頭をもたげて、かれはおのれをことさら大きく見せようとしたのかもしれない。

――馬謖に大事を任せてはならぬ。

そう諸葛孔明に語げた劉備の人物眼が、図らずも中ったことになる。

街亭で馬謖が喫した大敗は、孔明に人を観る目がなかった結果であるというよりも、

蜀漢に人材が払底していたというほうが的確なのかもしれない。

つまり、重要任務を任せられるような気鋭の士が、馬謖以外にいなかったのではなかろうか。

粒ぞろいの人材を有する魏に対する焦りが、孔明に北伐を敢行させたのかもしれない。

中国史人物伝シリーズ

目次

街亭の戦い

馬謖は非凡な才能をもち、軍略を論じることを好み、丞相の諸葛亮から非常に高く評価された。
建興六年(二二八年)春、諸葛亮は、漢朝を再興せんとして兵を挙げ、魏を攻めた。
その先鋒の将に、諸葛亮は実戦経験がない馬謖を抜擢した。
馬謖は勇躍し、精鋭を率いて街亭へむかった。
街亭は、南北を山ではさまれて道幅がせまいという要害の地である。
その道すじを押さえるよう諸葛亮から命じられたはずの馬謖であるが、
現地に到ると、何を想ったか、山上に陣を布いた。

衒 気

山上に陣取った後に出された馬謖の命令は、珍妙で煩雑をきわめた。
王平から再考を促す使者が、何度も馬謖の本陣を訪れた。そのたびに、
「兵法を知らぬ者は黙っておれ」
と、嘲笑し、まったく聴き容れなかった。
――敵をあざむく奇策は、味方でさえも理解できないものじゃ。
そう悦に入っている馬謖は、おのれの才覚に自信がありすぎた。
それだけに、王平はじめ属将たちが、何を危惧しているのかわからなかった。
――丞相だって、あとになれば、われのほうが正しかった、とおわかりになるはずじゃ。
そう思い込んでしまっているだけに、もはやたれの言にも耳を貸そうとはしない。
もはや、かれは衒気の中にあった。
そこに、魏の将軍張郃があらわれた。
曹操以来魏の三代に仕えた歴戦の名将である張郃は、全軍に馬謖が陣取る山を包囲させた。
――ふん、そんなことをしてどうなるものか。
馬謖は、鼻を鳴らした。
おのれの兵略に自信があったかれは、敵将が何を目論んでいたかを考えなかった。
つぎの日から、山上の陣から兵士のすがたが少しずつ消えていった。

大 敗

数日後、山上に陣取る馬謖軍の兵数はほぼ半減し、士気は明らかに低下していた。
かれらは、飢渇に苦しんでいた。
魏軍にふもとの水路を押さえられたからである。
馬謖軍の将兵は水が飲めなくなり、孤立してしまった。
実は、王平が危惧していたのは、これなのであった。
学識のない王平に気づくことが、学識のある馬謖にはわからなかった。
このあたりが、実戦経験がものをいうところなのであろう。
ましてや、敵将の張郃は、幾多の戦場をくぐり抜けた歴戦の名将である。
この時点においても、劣勢にあることを自覚できなかった馬謖は、
「山を駆け下れ」
と、全軍にそう命じた。
かれの目算では、高所から駆け下った勢いで、敵を蹴散らかせるはずであった。
ところが、魏軍は馬謖軍が山を下りるのを、待ち構えていたようであった。
そのなかに飛び込んだ格好になった馬謖軍は、からだに力が入らず、
魏兵が振るう刃の格好の餌食となった。
馬謖軍は大敗し、兵は四散した。
――こんなはずでは――。
胸裡でそう呻いていた馬謖自身も、敵の包囲から脱け出るのが精一杯であった。
諸葛亮は馬謖軍の大敗を聞くと、全軍に撤退命令を出し、漢中に引き揚げるしかなかった。
敗因が、おのれの策に溺れて敵を侮り、属将の諫言に耳を貸さなかった馬謖にあったことは、
いうまでもない。

泣いて馬謖を斬る

馬謖は、軍法による裁きを受けることになった。
――丞相がわれを見捨てようものか。
おのれを目にかけてくれた諸葛亮の情にすがることで、
一縷の望みをかけようとした馬謖に申し開きの機会が与えられた。

裁 定

馬謖が、諸葛亮のまえに引き据えられた。
諸葛亮と貌を晤わせたとたん、涙が馬謖の頰を伝っていった。
これまで諸葛亮と幾度となく親密に談笑しあったことが、馬謖の脳裡に浮かんでは消えていった。
諸葛亮も涙を滂沱と流すばかりで、たがいにことばを発しなかった。
「軍法に照らし、馬謖を斬る」
これが、諸葛亮の処断であった。
たった一度の過ちで有為の士を切り捨ててしまうのは、厳酷であるといえなくはない。
しかし、こうでもしなければ、馬謖の擢用に不満をいだく将兵をなだめることができなかった側面もあろう。
従容と罪に服した馬謖は、三十九歳で刑場の露と消えた。
諸葛亮はみずから葬儀に臨み、馬謖のために涙を流してその死を悼むとともに、
その遺族を従前同様に扱った。
十万の将兵も馬謖の死を悼み、惜しんだ。
「天下がまだ平定されていないのに智謀の士を殺したのは、何とも残念なことです」
のちに蔣琬からそういわれると、諸葛亮は涙を流しながら、
「孫武が天下を制し、勝つことができたのは、法の執行が明確であったからじゃ。
海内が分裂し、戦が起ころうとしているときに、法を無視したならば、逆賊を討つことなどできようか」
と、応じた。
かれが下したこの処断は、
「泣いて馬謖を斬る」
という成語となり、規律を保つためには、
たとえ愛する者であっても、違反すれば厳しく処分することの譬えとして不朽のものとなった。

軍 律

諸葛亮が問題にしたのは、軍事の失敗ではなく、馬謖が指示に逆らったことである。
かれにとって、富強な魏を伐つには、軍法の遵守は至上であった。
諸葛亮は、馬謖に目をかけていた。
それでも、軍法にそむくことは許されない。
いや、むしろ親しくしていたからこそ、なおさら厳罰に処すべきであろう。
諸葛亮は、馬謖を処刑することで、公私のけじめをつけたのである。
一方、馬謖は、
――われは、丞相に愛されている。
と、感じていたがゆえに、
――命を聴かずとも、功を立てれば愛でられよう。
という甘えがあり、恣行にいたった。
このような結果主義的な考えは、馬謖だけのものでなく当時の主流であったらしい。
とはいえ、軍法に対する考えが諸葛亮と大きくずれていたといわざるを得ない。
諸葛亮にとって、馬謖の処刑は軍法を守り、国家の大事を達成するために避けられない処断であった。
これで軍中がより一層規律正しくなったのであるから、馬謖の死は無駄にはならなかった。
しかし、馬謖の頭脳を頼れなくなった諸葛亮は、自身の才知で北伐を遂行するしかなかった。
その志半ばでかれは病に罹り、陣中で帰らぬ人になってしまった。
そして、かれの命令がなければ行動できなかった者ばかりが残った。
もし馬謖が生きていれば、蜀漢の命運は違ったであろうか。

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