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中国史人物伝

趙国最後の名将の悲哀 李牧(戦国 趙)

『古事記』で渡来人 王仁が日本に伝えたとされる『千字文』は、

六世紀初めに南朝の梁で作られたもので、千字の異なる漢字から成り、

日本でも長く漢字や習字の初心者向けの教科書として用いられた。

その中に、
“起翦頗牧 用軍最精”
という一節がある。

起翦頗牧の四将が、用兵に最もすぐれていた。
という意味である。起翦頗牧とは、

白起(秦将、?-前257)
王翦(秦将)
廉頗(趙将)
李牧(趙将、?-前229)

のことで、四人を、
“戦国四大名将”
と呼ぶことがある。

四人は、活躍から二千二百年以上が経った今なお名将として知られる。

李牧は、漢に捕えられ、

「敗軍の将、兵を語らず」

と、韓信に語った李左車の祖父でもある。

その最期は、趙の末路と相まって悲哀を漂わせるものがある。

中国史人物伝シリーズ

目次

趙国の苦悩

趙は、晋の大臣であった趙氏が、紀元前五世紀に韓・魏とともに晋の領地を三分して成立した。
もとの晋の北部を版図とした趙の北境は、匈奴という異民族の侵攻に悩まされていた。
遊牧騎馬民族である匈奴は、食糧が不足すると趙の領内に侵入し、趙人の農作物や畜産物を掠奪したのである。
――胡(匈奴)人に勝つには、胡人のようにするしかない。
そう考えた趙の武霊王は、紀元前四世紀末に、「胡服騎射」という匈奴の服装と戦法を採用した。
中原での戦いは、馬にひかす戦車と歩兵とによる車戦や歩戦が主であったが、
匈奴との戦いでは騎兵戦で臨もうとしたのである。
そのために、人が馬に直接またがり、馬上から矢を射る騎兵軍団をつくりあげた。
この軍制改革により、趙は版図を北方に拡げ、長城を築いて匈奴の侵入に備えた。
しかし、紀元前三世紀に入ると、強大化をつづける西隣の秦から圧迫を受けるようになった。

守 戦

李牧は、趙の北辺の将として、代の雁門で匈奴の侵入に備えていた。
かれは塞に吏人を配置し、市井からの税を士卒の費用に充てていた。
毎日数頭の牛を屠殺して士卒を饗応し、騎射を習わせ、烽火を多くし、間諜を多数放ち、士卒を厚遇した。
「もし胡が侵入してきて、掠奪をはじめたら、すぐに塞に籠れ。捕獲しようとする者がいれば、斬るぞ」
李牧は、常々将士にそう命じていた。
将士はいいつけを守り、匈奴が侵入するたびに烽火を多くし、塞に籠って戦おうとしなかった。
おかげで、数年間何の損害を被ることがなかった。

更 迭

匈奴は李牧を怯懦となじり、趙兵もわが将は臆病だとおもった。
「出撃して、戦え」
趙王は、そう命じて李牧を責めた。
しかし、李牧は考えを改めなかった。
趙王は怒って李牧を召還した。
それから一年あまり、趙軍は匈奴が侵入するごとに塞から出撃して戦ったが、戦況は不利で、被害も大きく、
辺境で農耕や牧畜をすることができなくなった。
――やはり、李牧でなければ。
という声が趙で高まった。
李牧は門を閉じ、病と称して外に出なかった。
趙王は無理やり李牧を復位させ、雁門へゆかせようとした。
「王がどうしても臣を起用なさるのでしたら、臣は以前のようにさせていただきますが、それでもよろしければ命令をお受けいたします」
李牧はそう申し出た。
「わかった」
と、趙王が許したので、李牧は雁門へゆき、以前の通りにした。

駆 逐

匈奴は、数年間趙から何も奪い取ることができなかった。
――やはり、李牧は臆病者じゃ。
かれらは、李牧を侮った。
一方、辺境の守備兵たちは毎日賞賜をもらえるが、戦争がないので、腕が鳴ってしかたがない。
「どうか戦わせてください」
かれらは口ぐちに李牧にそう願い出た。
「わかった」
李牧は、戦車千三百乗と一万三千の騎馬、精兵五万、強弓の射手十万をそろえ、軍事演習をおこなった。
その後、家畜を放牧し、人民を野に散らばらせた。
匈奴が侵入してくると趙軍は佯北し、数千人を置き去りにした。
単于(匈奴の王)はこれを聞くと、大軍を率いて趙に侵攻した。
李牧は奇陣を設けて迎撃し、左右両翼を展開して匈奴軍を大破し、騎兵十余万騎を殺した。
さらに、襜襤を滅ぼし、東胡を破り、林胡を降したため、単于は逃げ去った。
匈奴は、その後十余年もの間、趙の版図に近づこうとしなかった。

暗君と奸臣

趙の悼襄王は、匈奴との戦いで武功を挙げた李牧を将軍に起用した。
悼襄王二年(紀元前二四三年)、李牧は燕を攻め、武遂と方城を取った。
悼襄王が亡くなり、遷が趙王になった頃から、秦が天下統一を目指し、軍事活動を活発化させた。
まず狙われたのは、趙であった。
趙王遷二年(紀元前二三四年)、趙の将軍である扈輒が平陽で秦軍と戦って敗死し、十万人が斬首された。
翌年、大将軍に任じられた李牧は、宜安で秦軍を邀え撃って大勝し、秦将の桓齮を敗走させた。
この戦果に驚喜した趙王遷は、李牧を武安君に封じた。
さらに、そのつぎの年、李牧は番吾を攻めた秦軍を撃破した。
趙王遷七年(紀元前二二九年)、王翦率いる秦軍が趙に攻めこんだ。
趙は、李牧と司馬尚に防がせた。
秦は、趙王の寵臣である郭開に多額の賄賂を贈り、
「李牧と司馬尚が謀叛をたくらんでおります」
と、讒訴させた。
それを真に受けた趙王遷は、二将を更迭することを決め、使者をだした。
李牧は、王命を拒んだ。
すると、李牧は趙王遷の密命を受けた使者に捕えられ、斬られてしまった。
数か月後、王翦は趙の首都である邯鄲を急襲して陥とし、趙王遷を捕らえ、趙を滅ぼした。

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