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中国史人物伝

漢朝興隆の地に築いた理想郷 五斗米道 張魯(漢魏)(1) 少容

「日本の国、まさに天皇を中心にしている神の国である」

当時の総理大臣がしたこの発言が、物議を醸したことがあった。

新興宗教を母体とした集団による叛乱で幕を開けた『三国志』において、

地方に拠って”神の国”もとい宗教王国を築きあげた男がいた。その名は、

張魯(あざなは公祺)

新興の道教教団 五斗米道の教主であったかれは、漢中を根拠に君臨した。

五斗米道については謎が多く、それが三国志愛好家の興味を惹きつけているばかりか、

学者のメシのタネにもなっているようである。

中国史人物伝シリーズ

目次

五斗米道

教 法

五斗米道とは、二世紀半ばに起こった道教教団である。
その教法の中心は、祈祷による病気の治療であった。
病気は、過去の罪過に対し、神が下した罰であるとされた。
そこで、病人を静かな部屋に入れて罪過を告白させ、病人の名と罪過を書いた三官手書と呼ばれる文書を、
天地水の神々に捧げて許しを請わせたり、『老子道徳経』を唱えさせるなどして治病し、
治癒すると、謝礼として米五斗(約十リットル)を寄進させた。
そのため、五斗米道と称された。
この手法は、同時期に張角が創始した太平道と似ている。
しかし、五斗米道と太平道の間に交流があったかどうかはわからない。
五斗米道は貧困と悪政に悩む民衆の心を惹きつけ、篤く信仰されるようになった。

組 織

五斗米道の信者は、信仰の程度により、
 鬼卒(一般の信者)
 鬼吏(病人のために祈祷をおこなう)
 姦令(信者に『老子』五千字を習熟させる)
 祭酒(信者を率いる)
 大祭酒 (治頭)(多数の信者を率いる)
という階層に分けられ、教主である張魯はみずからを「師君」と称した。
かれはこれを政治組織にそのまま適用し、長吏(県の高官)を置かず、
支配領域を二十四の「治」と呼ばれる教区に分けて、祭酒に治めさせたため、民衆も異民族も喜んで服従した。

二流派

『三国志』張魯伝によれば、五斗米道は張魯の祖父である張陵が蜀ではじめた。
張陵は鵠鳴山の山中で道術を学び、老子から呪法を授かったと称し、道術の書物を著した。
張陵は自らを天師と称し、民間信仰をもとに禁戒を設け、祈祷によって病気を治した。
五斗米道は、張陵の後、張衡、張魯と続き、益州で強固な組織を作りあげた。
一方、『三国志』張魯伝に付された裴松之の注には、張脩が漢中で五斗米道を布教したという
『典略』の記述を引用し、張脩は張衡の誤りであると指摘している。
果たして、そうであろうか。
張脩の名は、『後漢書』霊帝紀にもみられ、その李賢注には、張脩は五斗米師と号した、とある。
おもうに、張脩は張衡とは別人ではなかろうか。
つまり、五斗米道には張陵と張脩という二つの流派があったのではなかろうか。
張脩が五斗米道を布教していた漢中に入った張魯が、その様子を羨み、
張脩の生命ばかりか五斗米道までも奪い取ったのではあるまいか。
張脩を殺しておきながら、かれが築いた成果の上に乗ったのである。
さすがに他人のものを奪い取ったというのは外聞が悪いので、張脩の存在を抹消して張陵を開祖として崇め、
祖父から三代続く由緒ある教団であると喧伝したのであろう。
張陵と張衡は、みずからの流派をどのように称したのであろうか。
張魯は開祖の張陵から教主の座を直接継承したとはいわず、張衡を中間継承者にしている。
張衡の事績は不明で、張魯の父ではなく叔父であるという説もある。
それでも、張魯はみずからの正当性を主張するために、張陵だけでなく張衡の存在までも必要とし、
張衡から教主の座を受け継いだとしなければならない事情があったのであろう。

雄 飛

出身地

張魯は、沛国豊県の人である。
『三国志』魏書張魯伝の冒頭にそう記されているが、これには疑念を抱かざるを得ない。
父祖が益州で暮らしていたのであるから、かれも益州で生まれ育ったと考えられ、沛国豊県とは無縁であろう。
それでも、そこを出身地としたのは、もしかすると、みずからを
漢中を根拠にして天下を統べるまでになった漢の高祖劉邦になぞらえたのかもしれない。
ここは、本籍地が沛国豊県で、住民票が益州にあったと想うのが無難であろうか。

少 容

劉焉が益州の牧(州の長官)として赴任してきたとき、州内では反乱が群発していた。
劉焉は益州を鎮静化するため、民衆にひろく信仰されている五斗米道に目をつけた。
五斗米道の側でも、活動をさらに拡めるために権力に取り入ろうとした。
両者を結びつけたのが、教主である張魯の母である。
かの女は、巫術を使ううえに容姿に優れていた。『華陽国志』に、
――魯の母は、少容あり。
と、記されるように実年齢より少くみえたせいか、劉焉に寵愛され、巫術師として劉焉の家によく出入りした。
劉焉は張魯を督義司馬に抜擢し、別部司馬の張脩とともに漢中を攻略させた。
張魯は漢中を平定すると、張脩を殺害してその軍勢を奪い取り、漢中を占領した。

独 立

興平元年(一九四年)に劉焉が亡くなり、子の劉璋があとを継いだ。
――劉璋は、暗愚で懦弱じゃ。
張魯はそう侮って、劉璋に従わなくなった。
すると、劉璋は怒り、建安五年(二〇〇)に張魯の母と弟を殺した。
そのため、益州と完全に敵対することになった張魯は、氐族や巴夷の首長たちを自陣に加え、巴郡を攻め取り、版図に組み込んだ。
巴夷とは、賨人あるいは板循蛮とも呼ばれ、神兵と称されるほど武勇を誇る民族である。
かれらは劉璋の秕政に反発し、劉璋と反目する張魯と組んだのであろう。
『華陽国志』には、賨人(板循蛮)が五斗米道を信仰したという記載がある。
張魯はかれらを五斗米道の階層に取りこんで、支配下に置いたのであろう。
張魯は、漢中に攻めこんできた劉璋の兵をことごとく撃破し、五斗米道の教義に基づいた政治をおこなった。

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