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中国史人物伝

商売の始祖 治水の達人 白圭(戦国時代)

領地や権力をもっていれば、富貴を得やすい。

しかし、領地も権力もない庶民でありながら富を築きあげた素封家がいた。

かれらが成功できたのは、運がよかっただけなのであろうか。

たしかに、成功するには、運が必要かもしれない。

しかし、不断の努力がなければ時宜は到来せず、成功もおぼつかなかったであろう。

日頃から人知れぬ努力を続けたことで運が巡り、成功に結びつけられたのではなかろうか。

中国史人物伝シリーズ

目次

商人の誕生

古昔、商(殷)王が中華を統治した時代があった。
しかし、商は西方で勢力を伸張した周に滅ぼされてしまった。
周は商の子孫に寸土を与え、先祖の祭祀を行わせた。
ところが、かれらの土地は不毛の地であり、自給自足に事欠いた。
そのため、商の遺民は、豊作と聞けば、そこへ行って安く仕入れ、米が足りないところへ売り、豊漁と聞けば、そこへ行って安く仕入れ、魚が足りないところへ売った。
このように、余剰物を不足している地へ運び、売りさばく人を、かれらの先祖にちなんで
商人
と、呼ばれるようになったという。

商人の身分

紀元前四世紀、秦の孝公から絶大に信頼され、国政の大改革を断行した商鞅は、
――商人は、苦労せずに利益が得ている。
として、農民よりも下位に置いた。
以来、封建制度において、商人の地位は卑いものとされた。
――商人はみずから汗を流すような労力をかけて生産していない。
と、考えられたからである。
しかし、必ずしも商人は居ながらにして財を成したわけではない。
特に、素封家と呼ばれる人物には、時期を見計らって物を取引して富を築くことができる知恵があった。
かれらは、知的労働によって生産をあげていたのである。

利殖の祖

白圭は、周の洛陽の商人である。
『史記』貨殖列伝によれば、魏の文侯の時――紀元前五世紀から紀元前四世紀――に活躍した人である。
この頃になると、周王の威光はすっかり衰えてしまっていた。
それでも洛陽は王都であり、居ながらにして天下の至るところから情報が集まってくる。
白圭は、王都にいるという地の利を活かしたといえよう。
さらに、かれは商売の時機の変化を観ることを好み、他人が棄てるものを安く買い集め、それを必要とする人に高く売った。
例えば、米が豊作であれば米を買い取って、不作のところに売ったり、
繭が豊作であれば絹を買い取って、絹が不足するところへ売ったりしたのである。
このようにして白圭は、商品の相場変動で物を動かし、差益を出した。
これは、現在の先物取引のようなものであろう。
さらに、白圭はつぎのような豊凶の循環法則を見いだした。
卯年は豊作になるが、次の年は不作になる。
午年は旱で不作になり、次の年は豊作になる。
酉年は豊作になり、次の年は不作になる。
子年は大旱になり、次の年は豊作になるが、洪水が起こる。
このようにして、再び卯年がやってくると、貯蔵が増えている。
この法則から予測して好機とみるや、猛獣猛禽のようにすかさず取引を行い、財産を成した。
このような投機的な商売によって、かれは成功を収めた。
――白圭のようになりたい。
当時、そのように憧れた者が少なくなかったであろう。
「われが財産を蓄えるのは、伊尹や呂尚(太公望)の謀計や孫子や呉子の兵法を用い、商鞅の変法を実行するようなものだ。だから、臨機応変に対応できる知恵がなく、決断する勇気がなく、物を取ったり与えたりするような思いやりがなく、守るべきことを守る強さのない者には、われのやり方を学びたいと思っても教えないであろう」
白圭は、常々そう語った。
後世、利殖に長けた者は、みな白圭を祖とした。
財産があると、暮らしぶりは豪奢になりがちである。
ところが、白圭は粗衣粗食に甘んじ、欲を抑え、役に立つ家僕(召使)と苦楽をともにした。
かれは、商売で得た利益を治水などの公共投資に惜しみなくつぎ込み、社会に貢献した。
まさに王者の事業といってよい。
財貨は流動するものである。
財物が多いところから寡いところへ移るのは、水が高所から低所へ流れるようなものなのであろう。
そんなことを教えてくれる白圭は、商人の枠にとらわれない気宇の大きな人であった。

白圭は二人⁉

『史記』貨殖列伝に登場する白圭は、魏の文侯のころの人である。
白圭という人物は、『孟子』や『韓非子』にも登場する。
『孟子』に登場する白圭は、名を丹といい(圭はあざな)、治水に巧みであった。
治水といえば、古昔の聖天子・禹王に優る者はいないとされる。
「われがやった治水は、禹王が行った治水事業よりも優れている」
白圭は、大胆にもそう自慢したり、人民が生活に苦しんでいると知って二十分の一税を提唱したりして、
その都度孟子にたしなめられている(儒家の理想は、十分の一税)。
『孟子』には、孟子が梁すなわち魏の恵王と問答を交わした記録がある。
恵王は文侯の孫であり、その間に武侯の治世を挟むが、『史記』魏世家によれば、それぞれの在位年数は、
文侯 三十八年
武侯  十六年
恵王 三十六年
である。
孟子が恵王に謁見したのは恵王の三十五年であり、文侯の時から半世紀離れている。
そうなると、『史記』に登場する白圭と孟子と問答を交わした白圭を同一人物とするのには無理がある。
『韓非子』に登場する白圭は魏の宰相であり、『孟子』に登場する白圭とは、治水に巧みであるという共通点があることから、同一人物である可能性がある。
そもそも周の商人と魏の宰相が同じ人物であるはずがないではないか――。
そう指摘されるかもしれない。
が、実力重視の戦国時代にあっては才覚さえあれば他国出身の商人をも鼎位に据える例があるため、
周の商人である白圭を魏が宰相に擢用したとしても奇異というわけではない。
ここまで書いておきながら、商鞅が魏の恵王に仕えていたことに気がついた。
恵王の祖父である文侯と同時代人である白圭が、半世紀後の出来事について述懐するはずがない。そうなると、
――白圭が、魏の文侯の時の人である。
という『史記』の記述に疑念を抱かざるを得なくなってしまうが、どうであろうか。

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