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中国史人物伝

荘子の心友にして魏の宰相 名家の大家 恵施(戦国時代)

湯川秀樹博士は、中間子理論の着想を、『荘子』から得たらしい。

博士は『荘子』を愛読し、「知楽魚」という随筆のなかで

魚の楽しみをめぐる荘子(荘周)と恵施との問答(後述)を取りあげている。

恵施は魏の宰相にまで昇った思想家であるが、著作が現存しない。

かれの思想を知ろうとおもえば、諸書に断片的に散見される記事から推察するしかない。

特に、道家の聖典ともいえる『荘子』には、荘子の対話相手として恵施が多く登場し、

その思想の一端を窺い知ることができる。

中国史人物伝シリーズ

目次

魏の宰相

魏は春秋時代に覇権を有した晋が前身で、戦国時代初期に最も富強であった。
魏の恵王は覇者を気取ったが、紀元前三四三年に魏は馬陵で斉と戦い、大敗した。
「斉は寡人(諸侯の一人称)の讎じゃ。この怨みは死ぬまで忘れぬ。
小なりとはいえ、国じゅうの兵を尽くして斉を攻めたいとおもうが、どうであろうか」
恵王からそう諮問された恵施は、
「なりません。もし王が斉に報復したいとお思いなら、覇者の服から諸侯の服に着替え、
節を屈して斉に入朝なさいませ。さすれば、きっと楚王は怒りましょう。
王は楚に人を遣り、斉と戦わすようにしむけなさいませ。
休息十分な楚が疲弊した斉を伐てば、きっと斉は敗れましょう」
と、進言した。
自国が被害を受けずに報復する、という妙計に恵王は従い、斉に入朝した。
果たして楚王が怒り、大軍を率いて斉を攻め、大破した。
恵王は大喜びし、恵施を宰相に抜擢した。
恵施は国内の安定を図る一方、斉や楚と合従して秦に対抗しようとした。
しかし、紀元前三二二年、秦の宰相であった張儀が魏にきて、
「秦と組んで斉・楚を伐ちましょう」
と、連衡策を主張すると、多くの群臣がなびいた。
恵施は孤立し、逐われるように魏を去って楚へゆき、さらに宋へ行った。
三年後に恵王が亡くなり、張儀が魏を去ると、恵施は魏に復帰した。

文王の義

恵王の葬儀の当日、雪が降り積もった。
――牛の目に至る(『戦国策』魏策)。
ほどの大雪である。
にもかかわらず、襄王(恵王の子)は葬礼を強行しようとした。
「日を改めましょう」
と、群臣に諫められても、
「人の子でありながら、民の労苦と費用がかさむからといって先王の喪をしないのは、不義じゃ」
と、反発し、取り合わない。
「何とかしてもらえませんか」
と、宰相の犀首から相談され、恵施は参内し、襄王に謁見した。
ここで、恵施は周の季歴の葬儀の話をもちだした。
文王の父である季歴は、楚山のふもとに葬られた。
葬儀の日、どこからか水が漏れ出て墓を浸し、棺の頭が露出した。
――ああ、先君は人民にもう一度会いたがっておられる。
文王はそういって、棺を掘り出して人民に目通りさせてから、三日後に改葬した。
「これが文王のなさり方です」
そういった恵施はつづけて、
「王は期日を守ろうとして葬儀をお急ぎになられてはおられませんか。どうか日をお改めください。
先王はしばらくおとどまりになり、社稷を扶け、人民を安んじようとおぼしめしなのでございましょう。
ですから、日を改めるのが文王のなさり方なのです」
と、説いた。文王を持ち出されては、襄王も我を通すわけにはいかず、
「あいわかった。葬儀を延期するといたそう」
と、応じるしかなかった。
君臣の関係が悪化して国が乱れることを防いだこの一事が、恵施にとって最大の功績かもしれない。

『荘子』にみえる恵施

恵施は、論理学というべき名家を代表する人物でもある。
恵施と荘子(荘周)はともに宋の出身で、互いに認めあう親密な間柄であった。
恵施が魏の宰相になった後、荘子がかれに会いにくると聞かされて、
――取って替わられる。
と、恐れ、国じゅうを三日三晩捜索させたらしい。
荘子も恵施との交わりを楽しんだことが、『荘子』の諸処から垣間見える。
恵施が死去すると、荘子はことばを失い、
「議論する相手がいなくなった」
と、痛嘆したらしい(『淮南子』脩務訓)。
『荘子』で恵施は荘子の引き立て役にされているが、これは当時恵施に名声があったからではなかろうか。

魚の楽しみ

恵施と荘子が、濠水という川のほとりを連れ立って歩いていた。
橋を渡ったとき、
「魚が悠々と泳いでいる。あれが魚の楽しみだ」
と、荘子がいった。すかさず、恵施が、
「あなたは魚ではない。どうして魚の楽しみがわかるんだ」
と、訊いた。
「あなたはわれではない。われに魚の楽しみがわからないなんてどうしてわかるのか」
荘子がそう問い返すと、恵施は、待ってましたとばかりに、
「われはあなたではない。ゆえに、あなたに魚の楽しみがわかるかどうかなんてわからない。
あなたは魚ではない。ゆえに、あなたに魚の楽しみなどわかるはずがない」
と、断じた。
――他人がわからないことを理解することはできない。
この論理のどこに欠漏があろうか。
――これで荘子をやりこめた。
恵施は、胸を張った。
しかし、荘子は冷静であった。
「ちょっと話をもとに戻そう。あなたがわれに、どうして魚の楽しみがわかるのか、と訊いたとき、
われが魚の楽しみがわかることをわかっていたのではないか。
それと同様に、われは橋を渡ったときに魚の楽しみがわかったんだ」
この発言に、恵施はどのような反応を示したのであろうか。

影と競う

恵施は多芸多才で、五台の車に積めるほどの書物を有したという。
かれは思索を深め、平面、空間、時間に存在する差別を否定し、
――ひろく万物を愛すれば、天地は一体なり(『荘子』天下篇)。
という概念に到達した。これは、
――天地は我と並び生じ、万物も我と一たり(『荘子』斉物論篇)。
という荘子の思想に通じるものであろう。
恵施は、天下の弁者と議論を戦わせることを楽しんだ。
その結果、詭弁に陥り、道から遠ざかってしまい、
――影と競走するようなものだ(『荘子』天下篇)。
と、荘子に残念がられた。
恵施は出世して栄達を遂げ、おのれの思想を為政に落とし込む必要があった。
ゆえに、世俗の目を気にせざるを得なかったであろう。
しかし、小役人にすぎず、俗世に媚びる必要がなかった荘子は、
恵施が導き出した「差別否定の思想」を万物斉同説へ昇華させた。
恵施が知的な論理の分析に徹したのに対し、荘子は普遍性を追求したといえようか。

譬喩の効用

『説苑』(善説)に、興味深い話がある。
「恵子はよく譬え話をします。もし王が譬喩を禁じれば、何もいえなくなるでしょう」
ある人からそう吹きこまれた梁王(魏王)は、
「どうか先生、これから話すときは直言のみとし、譬え話はしないでいただきたい」
と、恵施にいった。すると、恵施は、
「弾(はじき弓)を知らない人から弾についてたずねられて、
弾は弾のような形のものだ、と答えてわかってもらえますでしょうか」
と、王にたずねた。
「それでは、わからんな」
「弾は弓のような形で、竹を弦にしたものだ、と応えてあげればどうですか」
「それなら、わかる」
「説く者は相手の知っていることを使って知らないことを説明し、他人にわからせようとするのです。
いま、王は譬え話をしてはならぬと仰せです。それでは話すことができません」
そこまでいわれると、王も、
「あいわかった」
と、譬喩を許すしかなかった。
他人に説明するときに譬え話をすることはよくあるが、その必要性をここまで明確に話した人は他にいようか。

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