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中国史人物伝

大樹将軍 馮異(後漢)

「大樹将軍」

なる四字熟語を知っているか、というクイズがあった。

大樹将軍といえば、後漢王朝の建国の功臣である

馮異(あざなは公孫)(?-34)

じゃないの?

と、思ったが、解説には他にも、

「謙虚で素晴らしい人格の将軍」

ともあった。 これは、馮異の逸話からきているのであろう。

素晴らしい人格の将軍とは、どんな人物であったのか。

中国史人物伝シリーズ

仁者か愚者か? 宋の襄公(春秋)(1) 覇者への途

嚢中の錐 毛遂(戦国時代)毛沢東の先祖?

一諾 季布(前漢)(1)逃走中

目次

劉秀との邂逅

馮異は、潁川郡父城県の出身であった。
地皇三年(二二年)、劉縯・劉秀兄弟が、漢王朝復興をかかげて南陽郡で挙兵した。
劉秀が隣の潁川郡に侵攻すると、馮異は新の役人として父城を守り、漢軍の攻撃を防いだ。
ところが、郡の属県を巡行中に漢兵に捕えられた。
このとき、従兄の馮孝らが劉秀に従っており、劉秀に馮異を推薦してくれた。
そのため、馮異は劉秀に引見してもらえた。
「願わくば属県の五城を将軍に帰服させる功を挙げ、ご恩に報いたく存じます」
そう申し出て劉秀に許された馮異は、父城に戻ると県長を説得し、五城を帰順させ、父城に劉秀を迎えた。
劉秀は、馮異を主簿(庶務係)に任じた。

河北攻略

更始元年(二三年)、新を滅ぼした更始帝が洛陽に遷都し、河北平定を企てたが、麾下に適当な将がいなかった。
そこで、劉秀を起用しようとした。しかし、諸将は劉秀を警戒し、反対した。
馮異は劉秀に従って洛陽へ行き、更始帝の重臣に働きかけ、劉秀への河北攻略の命令を引き出させた。
「役人に属県を巡撫させ、冤罪を再審理し、恩徳を施すべきです」
河北への途次、馮異は劉秀にそう進言した。
劉秀は馮異に属県を巡撫させ、地元の役人で味方になりそうな者と敵になりそうな者を調べさせた。
更始元年(二三年)冬、劉秀が邯鄲を発ち北へ向かうと、占い師の王郎が邯鄲で皇帝を自称して挙兵した。
そのため、劉秀は北方で孤立してしまった。
極寒の中、野宿が続き、馮異は劉秀に豆粥や麦飯などを献じたり、薪を運んだりして飢寒をしのいだ。
信都国に着くと、劉秀は現地の豪族を取り込み、反撃に転じた。
馮異は、劉秀から河間国の兵を集めてくるよう命じられた。
復命後、偏将軍に任じられた馮異は、王郎を討伐すると、応侯に封じられた。
王郎を誅滅した後も、河北には劉秀に従わない賊が多数残存していた。
劉秀は、銅馬など周辺の賊を討伐していった。
馮異は別働隊として鉄脛の賊を破り、匈奴の王を降服させ、河北平定に貢献した。

大樹将軍

馮異は謙虚で功績を誇らず、外出中に諸将の車に会えば、自分の車を引いて道を譲った。
かれの進退はみな理にかなっており、軍中の規律が正しいと評判であった。
戦陣で諸将が自分の軍功を競い合うと、かれは独り樹の下で座っていた。
そんな馮異を、兵士たちは、
「大樹将軍」
と、呼んで敬慕した。
王郎を破った後、劉秀が軍を再編成しようとすると、兵士たちがこぞって、
「大樹将軍に属したい」
と、希望した。
功を誇らず、部下からの信望を集めた馮異を、劉秀が重んじなかったわけがないであろう。

後漢の建国に貢献

天下に戦乱が渦巻く中、魏郡と河内郡だけは兵乱に遭わず、兵糧が充実していた。
そこに目を着けた劉秀は、馮異を孟津将軍に、寇恂を河内太守に任じ、二郡を守らせた。
河内郡からみて、黄河の対岸に洛陽がある。
この頃、更始帝は長安に遷都しており、旧都の洛陽を、李軼、朱鮪、武勃らが三十万の兵を率いて守っていた。
馮異は李軼に書簡を送り内応させ、洛陽の周辺諸県を平定し、十万人以上を降した。
さらに、朱鮪や武勃が率いる軍と次々に戦い、撃ち破った。
朱鮪は敗走し、洛陽城に閉じこもった。
馮異は、劉秀に戦況を報告した。
この戦果に諸将は沸き、劉秀に帝位に即くよう勧めた。
即位をためらう劉秀は、馮異を鄗に呼び、天下の動静を尋ねた。
「三王が叛き、更始帝は敗れ去りました。天下に主なく、漢のゆくえは大王にかかってございます。
上は社稷のため、下は人民のため、みなの意見に従いなさいませ」
馮異が即位を勧めると、劉秀は、
「われは、昨夜赤い龍に乗って天に昇る夢をみた。目覚めると動悸がした」
と、いった(赤は、漢王朝が基調とする色)。それを聞いて、馮異は席を下りて再拝し、
「これは、天命が精神に働きかけたのです。動悸がしたのは、大王が慎重な性であるからです」
と、言祝いだ。
こうして劉秀は諸将に推戴され、二五年六月に皇帝に即位した。光武帝である。
光武帝は十月に洛陽を陥とし、首都とした。
この年の十二月に、更始帝が赤眉に殺された。

関中平定

建武二年(二六年)、陽夏侯に封じられた馮異は、陽翟の賊を撃破した。
この頃、赤眉や延岑が三輔(関中)を荒らしまわり、郡県の豪族もそれぞれ兵をもち、これに対抗していた。
これに対し、光武帝は鄧禹に関中を攻略させたが、赤眉に敗れてしまった。
――鄧禹には荷が重かったか。
そう判断した光武帝は、鄧禹に替えて馮異を起用した。
馮異は西進し、弘農郡の群盗十数人を降服させた。
この頃、関中には食糧がほとんどなく、赤眉は東方へ帰ろうとしていた。
その集団に華陰県で出くわした馮異は、数十回も戦った末に赤眉の将兵五千人余りを降服させた。
赤眉との戦いは、六十日以上続いた。
その最中に、赤眉に連戦連敗し、引き揚げる途中であった鄧禹が敗軍を率いて現れ、
「ともに赤眉を攻めよう」
と、持ちかけてきた。これに対し、馮異は、
「陛下が黽池に諸将を駐屯させ、赤眉の東側を遮らせておられます。
われらが赤眉の西側を攻撃すれば、一挙に撃破できましょう」
と、提案したが、鄧禹は無視して赤眉と戦い、大敗し、三千人以上の死傷者を出した。
鄧禹は宜陽まで逃げたが、馮異はその西北の回谿阪にのぼり、兵数万人を集めて立て直してから赤眉と再戦し、崤底で赤眉を大破して男女八万人を降服させた。
なおも十万人以上もいた赤眉は、宜陽まで逃げた末、光武帝に降伏した。
光武帝は馮異をねぎらうとともに、かれを征西大将軍に任じた。
馮異は長安西郊の上林苑まで進軍し、延岑を攻め破り、関中から南陽へ追い出した。
この時、関中の人民は飢えに苦しみ、互いに食らい合うような状態で、兵士は果実を食べるしかなかった。
光武帝は、援軍と穀物を関中に送った。
兵糧物資に困らなくなった馮異の軍は、周辺の賊を討伐し、関中を平定した。
馮異は関中の人民を懐け、冤罪を審理し、三年で上林苑に人が集まるまでになった。

群雄との戦い

建武四年(二八年)、蜀の公孫述が数万の兵で関中に侵攻してきたが、
馮異は隴右(隴山の西側の地域)に割拠する隗囂とともにこれを撃ち破った。
公孫述はその後も幾度か関中に攻め入ったが、馮異はその都度撃退した。
建武六年(三〇年)、隗囂が漢に叛き、隴山で漢軍を破り、そのまま関中に侵攻しそうな勢いであった。
光武帝は詔命を出して、馮異を長安の北にある栒邑にむかわせた。
――先に城内に入った方が有利である。
馮異は兵馬を急がせ、栒邑へ到ると城門を閉じ、旗も太鼓も隠した。
そこに隗囂の属将である行巡が馳せてやってきた。
行巡が城に近づくと、馮異は太鼓を打って出撃した。
不意を衝かれた行巡は、逃げ去った。馮異はこれを数十里追撃し、行巡軍を大破した。
栒邑の北にある北地郡の豪族たちは、これを聞くと隗囂を見限り光武帝に降服した。
馮異は、光武帝に戦況を報告した。
――征西の功は、丘山のごとし。
光武帝は、功を誇らなかった馮異を激賞し、北地太守に任じた。
また、青山の胡一万人以上が馮異に降服した。さらに、馮異は盧芳や匈奴の軍を破った。
上郡と安定郡がみな降服し、安定太守も兼ねた。
建武九年(三三年)、馮異は征虜将軍も兼ね、前任の祭遵の兵も率いることになった。
この年、隗囂が死に、子の隗純が後を継ぎ、冀県で抵抗を続けた。
光武帝は馮異に天水太守代行をも兼務させ、隗純討伐に当たらせた。
馮異は隗純を援けるために公孫述が送った軍を撃ち、冀県を攻めたが、抜くことはできなかった。
諸将は帰還して兵を休ませようとしたが、馮異は軍備を解かず、常に先鋒となった。
翌年の夏に、馮異は陣中で発病し、亡くなった。
光武帝が公孫述を滅ぼして、天下を統一したのは、かれの死後二年経ってからである。

光武帝からの評価

馮異は読書を好み、『春秋左氏伝』や『孫子兵法』に通じていた。
かれが名将であったのは、兵略にすぐれ、兵に慕われたからであろう。
――卿はもとよりよく吏士を御す。(『後漢書』馮異伝)
光武帝からそう評された馮異は、占領地では掠奪を戒め、人民の心をつかんだ。
馮異は長く朝廷から離れて遠征軍を率いていたため、自分の立場に不安をおぼえていた。
そこで、光武帝に近侍したいと願い出たが、許されなかった。
ある人が光武帝に上書し、
「馮異は関中で専制を行い、咸陽王と呼ばれています」
と、讒訴した。
光武帝がその書状を馮異に送ってみせたところ、馮異は上書して謝罪した。
「将軍とは国家においては君臣であるが、恩愛は父子のようなものだ。嫌疑したり恐懼したりしようか」
光武帝はそう返書し、気にもとめなかった。
建武六年(三〇年)、関中に駐屯する馮異は勅命を受け、光武帝に謁見した。
馮異は妻子を人質に出すつもりで洛陽に連れてきたが、光武帝は馮異の妻子を人質に取らずに関中に帰らせた。
それほど馮異は光武帝から信頼され、重んじられたのである。
明帝の時に、後漢の天下統一に大功のあった雲台二十八将の一人に挙げられた。

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