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中国史人物伝

嚢中の錐 毛遂(戦国時代)毛沢東の先祖?

普段目立たない人に、取り立てて優れた才能がないのであろうか。

才能があっても表現の仕方が不器用であったり、あるいはそれを発露する機会に恵まれなかったりするかもしれない。

普段目立たない人が、切所において異能を発揮することがある。

人の真価は、切所において現れるものである。

上に立つ者には、人の能力の真贋を視る眼を養い磨き、才ある人がその能力を発揮できる環境を創り出す努力が求められよう。

中国史人物伝シリーズ

仁者か愚者か? 宋の襄公(春秋)(1) 覇者への途

一諾 季布(前漢)(1)逃走中

大樹将軍 馮異(後漢)

目次

自 薦

紀元前二五九年、趙は天下統一を目指す秦に攻められ、首都である邯鄲を包囲された。
前年に長平で秦に大敗して四十万以上の兵を失った趙には、兵士にできる成人男子がほとんどおらず、とうてい抗戦できる状態ではなかった。
「楚に援軍を出してもらおう」
趙の宰相である平原君はそう決めて、随員として家中の食客から知勇兼備の者を二十人選抜することにした。
平原君は士を好み、常に四、五千人の食客を養っていた。
その中から十九人までを選出したが、もう一人をたれにするか決めかねていた。そんなとき、
「われを加えていただきたい」
と、声を挙げた者がいた。この声の主が、毛遂であった。
「先生は、わが家に来られてから何年になりますか」
平原君は、毛遂の顔をのぞき込むように見ながら、訝しげにそう尋ねた。
「三年です」
平原君は首をはげしく横に振り、
「賢士が世にいるのは、錐が袋の中に入っているようなもので、鋭ければ刺さなくても先が袋の外に出てくるものです。先生がうちに来られてから三年。その間、先生のことを一度も聞いたことがない。それは、先生にこれといった才能がないからです。先生はお残りください」
と、断った。が、毛遂は引き下がらなかった。
「いま、袋の中に入れていただきたい、とお願いしているのです。われの名があらわれなかったのは、機会がなかっただけのこと。われを袋の中にお入れくだされば、先ばかりか柄まで飛び出してご覧にいれましょう」
――そこまで申すのであれば。
平原君は、毛遂の自薦を容れ、随員に加えることにした。
他の十九人は、互いに目くばせして毛遂を笑った。
平原君は二十人の食客を引き連れて、城を包囲する秦軍の中をすり抜け、楚へと向かった。
途次、毛遂は他の食客たちと論議し、十九人すべてを説服させた。

血 盟

平原君は、楚の都城に入ると、楚の考烈王に援軍を要請した。
――秦と敵対したくない。
そうおもう考烈王に、平原君の説述を容れる気配は全くない。
「趙が滅べば、次は貴国の番ですぞ」
平原君は根気よく利害を説いたが、考烈王に応じる気配など微塵もなかった。
平原君が日の出から長大舌をふるい続けているにもかかわらず、日中になっても決論が出なかった。
――ええい、埒が明かん。
毛遂は、剣把に手をかけるや足早に堂上へ上がり、
「合従の利害は、ふた言あれば決まるものじゃ。それなのに、日の出から始めた話が日中になっても決まらないのはどういうことか」
と、大声で呼ばわった。
「何者か」
と、考烈王は声の主ではなくて平原君に問うた。
「わが客です」
――下衆めが。
考烈王は嚇怒し、
「下がれ。われはなんじの主君と話をしておるんじゃ。なんじは何者か」と、叱りとばした。
毛遂は剣把に手をかけたまま王の前に進み出て、
「王がわれを叱りつけることができるのは、楚国の大衆をあてにしているからこそ。今、われは王と十歩も離れておらず、楚国の大衆をあてにできません。王のお命はわが手のうちにかかっております。楚の強さをもってすれば、対抗できる国など天下にございません。秦の白起などこわっぱにすぎません。それが数万の兵で楚と一戦して楚の両都 鄢・郢を攻め取り、二戦めで夷陵を焼き、三戦めで楚の先王を辱めました。これは百世の怨みであり、趙としても恥ずべきことです。合従は楚のためにするものでございまして、趙のためにするものではございません」
と、恫した。考烈王はたじろぎ、
「わ、わかった。たしかに先生のおっしゃる通りじゃ。謹んで社稷を奉じておっしゃるようにしよう」
と、応じるしかなかった。
「では、合従で決まりですな」
毛遂が念を押すと、考烈王は力なく頷いた。
すかさず毛遂は、
「鶏・犬・馬の血を持って参れ」
と、堂下で呆然と佇立している十九人の食客にいった。
食客たちが、犠牲の血を盛った銅盤を運んできた。
毛遂は、食客たちから受け取った銅盤を捧げ持ち、跪きながら、
「王よ、血を啜り、合従を確定させてください。次にわが君、そしてわれが啜ります」
と、考烈王に血盟を迫った。
考烈王は盤に盛られた血を啜り、平原君と毛遂が続いた。
「これで、趙と楚の合従は成ったぞ」
毛遂は、左手に銅盤を持ちながら、右手で十九人の食客を差し招き、
「そこもとらもこの血を堂下ですすれ。そこもとらは何の役に立たず、いわば人のふんどしで相撲を取っているようなものだ」
と、皮肉をいった。
平原君は、趙に帰国すると、
「われは士の目利きに自信があったが、毛先生については見過っていた。毛先生は一たび楚へゆき、趙の国威を九鼎・大呂(いずれも天子が保有する宝物)よりも重くしてくださった。毛先生の三寸の舌は、百万の軍より強い」
と、上機嫌でいい、毛遂を上客としてもてなした。
考烈王は、宰相の春申君を将として援軍を趙に派遣し、秦軍を撃退した。
趙は、危機を脱したのである。

毛沢東の祖先?

毛遂を毛沢東の先祖とする説があるらしい。

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