筹策多く威名あれども循行なし ローマ兵と戦った(⁉)名将 陳湯(前漢)(4) 玄門開く
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陳湯はすぐれた能力と郅支単于を誅した功績がありながらも、
その素行の悪さゆえ上尊から睨まれてしまい、思うように出世できなかった。
しかし、そんなかれを高く評価してくれた高官もいた。
そのひとりが、漢の高祖(劉邦)の異母弟 劉交の玄孫で、
『戦国策』や『説苑』などを編纂した大儒の劉向であった。
劉向は陳湯の智謀を奇とし、親交しあった。
それだけに気を許していたのであろう。
「災異がこのようにおこり、外家が日々に盛んになり、いずれきっと劉氏を危うくしよう」
と、劉向は陳湯にけわしい表情をむけつつ語った。
日ましに強まる外戚王氏の権勢に危惧をいだく親友の悲痛な心の叫びを
理解できなかったわけがないと思われるが、
陳湯の行蔵はそれと背馳したものになった。
中国史人物伝シリーズ
目次
昌陵起邑
はじめ、陳湯は将作大匠(宮殿の造営・修理を掌る官)の解万年と親交していた。
成帝は長安の西に寿陵(生前に造営する御陵)を起工していたが、その数年後に、
長安の東にある覇陵(文帝陵)の曲亭の南を気に入り、そこに寿陵を造り直させた。
解万年が陳湯に語らっていった。
「武帝のとき、工人楊光は作品が御意にかのうて将作大匠になり、
大司農中丞耿寿昌は杜陵(宣帝陵)を造営して爵関内侯を賜わり、
将作大匠乗馬延年はその労苦により中二千石の秩禄を賜わった。
いま初陵(未完の御陵)を造営して邑を起こし、大功を成せば、われもまた重賞を授かることになろう。
なんじの細君の実家は長安にあり、児子も長安で生長し、東方に徙るのは嫌であろうから、
ここに徙ることを求めれば、田宅を賜わることができて二人にとってよいではないか」
この提案に、陳湯は
「名案ではないか」
と、すっかり乗り気になり、さっそく封事をたてまつった。
「初陵は京師の地であり、最も肥美でございますゆえ、一県を立てることができます。
天下の民が諸陵に徙らなくなってから三十余年になりますが、
関東では富人がますます多くなり、その多くが良田を分画して貧民を役使しておりますゆえ、
かれらを初陵に徙して京師を強め、諸侯を衰弱させ、中産以下の者の貧富を均しくさせるべきと存じます。
願わくはやつがれも妻子家属とともに初陵に徙り、天下の先駆けをさせていただきとうございます」
成帝はその計に従い、鴻嘉元年(紀元前二十年)に昌陵の邑を起こし、そこへ人民を徙させた。
玄門開く
「三年あれば、御陵は完成できます」
解万年はそう公言していたが、三年が経っても寿陵は完成せず、群臣からその不便を訴える者が多くなった。
永始元年(紀元前十六年)、成帝は詔を下して昌陵の造営をやめさせ、
昌陵に徙した吏民を他所へ徙すことを禁じた。
この詔を知らない人から、
「邸宅を撤去されず、また他所に徙されたりはしないでしょうか」
と、不安げに問われた陳湯は、
「県官(天子)は群臣の意見に従うでしょうから、また徙されることになりましょう」
と、応えた。
また、冬に東萊郡で黒龍があらわれた。陳湯はある人からそのわけをたずねられると、
「いわゆる玄門開くというものです。天子が微行して何度も外出し、それが時にかのうておらぬゆえ、
龍が本来あらわれない時季にあらわれたのです」
と、解釈してみせた。
配 流
丞相と御史大夫が、陳湯の発言を伝えきいて、
「陳湯は衆を惑わして不道であり、みだりに詐りを称して異変を主上のせいにしたのは、
臣下として口にすべきことではなく、大不敬であります」
と、上奏した。事案が廷尉に下げ渡された。
「陳湯はありもしない詐りを称したばかりか、臣下として口にすべきでないことを公言し、大不敬である」
という廷尉の趙増寿の判決を受けて、成帝は制詔を下し、
「廷尉の仕置は正しい。一方で、陳湯はさきに郅支単于を征討した功がある。
それ陳湯を庶人とし、辺境へ徙せ」
と、命じ、陳湯は解万年とともに敦煌に流された。その後、陳湯は安定郡に徙された。
のちに議郎の耿育が上書して陳湯の冤罪を訟えたところ、哀帝は陳湯を長安に戻した。
そして、陳湯は長安で亡くなった。
追 封
陳湯は王莽を推薦し、
「父を早くに亡くしたので、封ぜられず、もっとも労苦しました。かれを封ずるべきです」
と、上書をおこなった。
陳湯の死から数年経つと、王莽が安漢公となり、政柄を執るようになった。
そして、陳湯を破胡侯に追封するとともに、その子を列侯に取り立てて、旧恩に報いた。
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