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中国史人物伝

善は衆の主 苦悶の宰相 欒書(欒武子)(春秋 晋)(10) 郤氏滅亡

欒書(9)はこちら≫

「戦って勝てば、厲公や三郤が増長し、抑えられなくなってしまう」

楚との交戦をまえに、士燮が執拗に主張していた懸念が、現実のものになろうとしている。

厲公は戦勝で浮かれ、尊大になった。

かれに寵愛されていた郤氏の三卿(郤錡、郤犨、郤至)は、

もはや宰相たる欒書に従おうとはしない。

副宰相の士燮は、国と家の将来を案じつつ、紀元前五七四年六月にこの世を去った。

語るに足る仲間を喪った欒書は、重大な決断を迫られようとしていた。

中国史人物伝シリーズ

欒書(1) 邲の戦い
欒書(2) 善は衆の主
欒書(3) 揺蕩
欒書(4) 不戦条約
欒書(5) 苦悶
欒書(6) 内憂外患
欒書(7) 六間
欒書(8) 鄢陵の戦い

目次

不 君

厲公は楚に勝ってから慢心し、おのれの功績を誇り、尊大にふるまうようになった。
人民の教化を怠り、賦斂(租税)を重くし、近臣を増やした結果、
――侈にして、外嬖多し。(『春秋左氏伝』成公十七年)
と、評されるまでになった。贅沢を好み、寵臣も多かったというのである。
やることなすことすべてがうまくいき、調子に乗った厲公は、
先君以来の重臣の存在が目ざわりになったらしく、
「諸大夫を罷免して、近臣を擢用しよう」
と、考えはじめた。はたして、士燮が危惧したとおりになろうとしている。

琴 線

「三郤」
と、よばれる郤錡、郤犨、郤至の三卿は、厲公の寵愛を受けて重用され、
宰相の欒書でさえはばかる存在であった。
なかでも、郤至は鄢陵の戦いで挙げた功を誇り、
「われは元帥(欒書)の命に従わずに、おのが判断で動いた。それゆえ、楚を破ることができたんじゃ」
と、国の内外を問わず吹聴してまわった。
これに、欒書がおだやかでいるわけがない。
――きゃつを除かん。
欒書は一計を案じ、鄢陵の戦いで捕虜となった楚の公子茷のもとに家臣を遣わした。

孫 周

公子茷が厲公に拝謁してからほどなく、欒書は召しだされ、
「楚の公子茷が、郤至が戦いに負けて孫周を立てようとしていた、と申しておったが」
と、諮われた。孫周は襄公の孫で、周で暮らしており、若くして英邁の聞こえが高かった。
じつは、孫周を君主に立てたいと望んだのは、郤至ではなくて、欒書であった。
欒書は内心では笑いながらも、さも驚いたかのようなふりをして、
「臣はもとよりそのことを聞き知ってございました。
郤至は難事を引き起こそうとして、郤犨に斉や魯の出師を遅らせ、おのれは君に戦うよう勧め、
敗れれば孫周さまを招きいれようと企んでいたのです。
ところが、ことが不首尾に終わったので、楚王を逃がしたのです。
そうでなければ、死を恤えずに敵からの使者を受け入れましょうか。
戦いの最中に勝手に国君を赦して贈物を受けるというのは、大罪ではないでしょうか」
と、したり顔で応えた。
晋の君臣で、郤至が鄢陵の戦いで楚の共王から礼待されたことを知らぬ者などいない。
それゆえ、厲公は、欒書の発言を真に受け、
「たっ、たしかに。いかがいたそう」
と、取り乱しながら諮うた。

陰 謀

「ためしに郤至を周へ捷報を届けにお遣わしになり、様子をご覧あそばされればいかがでございましょう。
郤至は周で、きっと孫周さまに会うでしょう」
厲公は欒書の進言を容れ、
「天子(周王)へ捷報をとどけにまいれ」
と、郤至に命じた。
欒書は郤至が出立の準備をしているところに家臣を遣り、
「京師(王都洛陽)へゆかれたら、孫周さまを訪ねてもらいたい」
と、告げさせた。一方で、孫周のもとへ使者を遣り、
「郤至がまいりますゆえ、必ず引見なさいませ」
と、申し入れた。
「ゆきおったか」
欒書は絳を発つ郤至を見送りながら、ほくそ笑んだ。

愛 憎

はたして、厲公の密命を受けて郤至を尾行していた近臣から、
「郤至が、孫周を訪ねました」
と、報されて、
「裏切り者め、われがあれだけ目をかけてやったというに」
と、厲公は嚇怒し、郤至を怨むようになった。
郤至が帰国してから、厲公は狩りをおこなった。その最中に、
「今日われが射とめたもののうち、最も大きなものにございます」
と、郤至が厲公に豕(猪)を献上しようとしたところ、寺人(宦官)の孟張が、
「お待ちくだされ。毒が盛られているかもしれませぬぞ」
と、横から叫ぶなり、豕を奪い取ってしまった。
「なめげな」
郤至が一喝し、弓を射て孟張を殺してしまった。
寵臣を殺されて、厲公は、
「季子、余を欺く」
と、憤り、寵臣と語らって郤氏討伐を謀った。

郤氏滅亡

厲公が特に寵愛した胥童、夷陽五、長魚矯は、みな郤氏に遺恨があった。
厲公七年(紀元前五七四年)十二月壬午(二十六日)、
厲公の内命を受け長魚矯が、大胆にも単身で郤氏邸に乗りこみ、郤錡、郤犨、郤至の三卿を殺害した。
その際、三郤はたれひとり歯向かわなかったというから、叛意がなかったのは明白である。
そのことにおもいをいたさない厲公は、
「われを欺けば、こうなるんじゃ」
と、いわんばかりに、三人の屍体を朝廷にさらした。
こうして、栄華を誇った郤氏がわずかのうちに滅ぼされた。
――こんなにうまくいくとは。
欒書は喜びつつも、恐懼した。
三郤の栄光も没落も、厲公の愚昧に起因していたからである。

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