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中国史人物伝

中隠を志向した閑居の達人 陶淵明や李白とならぶ飲酒詩人にして平安文化の恩人 白居易(白楽天)(唐)(9) 蝸牛角上

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親友の元稹が長慶2年(822年)に宰相に昇ったものの、わずか四か月で罷免されてしまった。

これをみて政務へのはり合いをなくしてしまった白居易は、

要職をなげうって、地方への転任を願い出た。

それが許されて、杭州刺史に任じられた白居易は、県城が臨む銭塘湖(西湖)に堰堤を築く

灌漑事業に着手し、任期満了間際の長慶4年(824年)の春に完成させた。

中国史人物伝シリーズ

白居易(1) 寒門
白居易(2) 科挙
白居易(3) 仕官
白居易(4) 長恨歌
白居易(5) 順風
白居易(6) 貶謫
白居易(7) 琵琶行

目次

終の棲家

堰堤が完成してほどなく、杭州刺史としての任期が満了し、
白居易は太子左庶子(正四品上)分司東都に任じられた。
太子左庶子は東宮官で閑職、分司東都は長安と同じ職を東都、すなわち洛陽にも併置するものである。
この年(長慶四年、八二四年)のはじめに、穆宗が金丹により中毒死し、十七歳の敬宗が即位したばかりで、
まだ太子も立てられていない。
——これは、致仕せよ、ということか。
白居易はそう勘繰り、この辞令が引退勧告ではないことを宰相の牛僧孺に書翰で確認してから
五月に杭州を発った。
杭州を去る際に、耆老(農民の長老)たちが送別の宴をひらいてくれた。
白居易はその気もちをうれしくおもいつつも、
「善政をおこなわず、堰堤を築いただけであるのに、どうして感謝されるのか」
と、当惑しながら、「別州民(州民に別る)」と、題する詩を詠んだ。
白居易は、秋に洛陽に到ると、洛陽の東南にある履道里にあった
妻楊氏の縁戚楊慿の旧宅を購入して自邸とした。これが、かれにとって終の棲家になる。
十二月には、越州にいる元稹によって、二つ目の詩文集『白氏長慶集』五十巻がまとめられた。

蘇州刺史

年があらたまり、宝暦元年(八二五年)になった。
白居易は、洛陽で友人と詩を交換するばかりの日々を過ごしていたが、しだいに閑職でいることに倦んできた。
——杭州にいたほうがよかった。
白居易はかつてを懐かしみ、ふたたび地方への異動を願い出て、三月に蘇州刺史(従三品)に任じられた。
白居易は三月二十九日に洛陽を発ち、
千七百里(約九百五十キロメートル)離れた蘇州に着いたのは五月五日であった。
長江の河口付近にあって太湖に近く、杭州の北に位置する蘇州は、春秋時代の呉の首都として栄え、
隋代に大運河が建設され、華北と直接結ばれるようになり、江南の中心都市として発展した。
赴任したばかりの白居易は、予想をはるかに上回るとめどない量の業務に忙殺されたうえに、
江南の暑熱に五十四歳になったからだが耐えられず、半月ほど休職を願い出た。
その後、秋になり、暑さが和らぐにつれて、外遊する余裕が出てきたらしく、
詩を詠んで蘇州が住みよい街であると讃えた。
住めば都とは、よくいったものである。

劉禹錫

宝暦二年(八二六年)、蘇州で五十五歳の春を迎えた白居易は、咳や痰に苦しんで一か月ほど病臥し、
快癒したかとおもえば、二月末には馬から落ちて足を負傷して三旬も寝込み、
持病の眼疾にも悩まされた。
そこで、七月に白居易は病気を理由に辞任を願い出て認められ、九月に蘇州をあとにした。
白居易は蘇州から運河を北上して揚州に到り、劉禹錫(あざなは夢得)と会った。
白居易が蘇州刺史であったとき、同い年の劉禹錫は近くの和州で刺史となっており、親しく文通していた。
ちょうど劉禹錫も任期が満ちて長安にもどることになっていたので、揚州で会う約束をしていたのである。
白居易は、劉禹錫と大明寺の棲霊塔に登り、
「筋力の猶お任に堪え 上りて棲霊第九層に到れる」(「夢得と同に棲霊塔に登る」)
と、詩に詠んで、老齢の二人がともに九層まで登りきれたことをよろこんだ。

栄 誉

白居易は半月ほど揚州に滞在してから劉禹錫と別れ、十一月に洛陽にはいった。
そのころ、弟の白行簡が死去した。
そして、十二月に敬宗が亡くなった。十九歳の皇帝の死は、寿命によるものではない。
夜遅く狩りから帰った後、酔って宦官と口論になった末に殺されたとされる。
急な訃報に接し、白居易は長安へむかった。
敬宗の弟で十八歳であった李昂が皇帝になった。文宗である。
ほどなく年が改まり、太和元年(八二七年)になった。
三月に、白居易は秘書監(従三品)に任じられた。
秘書監は秘書省(宮中図書館)の長官で、高位ではあるが、閑職であった。
宮中図書館長になったかれは、「秘書後庁」という七言絶句を残し、
「職場では毎日何ごともなく過ぎてゆき、白頭の老監が書を枕に眠っている」
と、無聊な日々を詠んだ。
太和二年(八二八年)の二月十九日に、白居易は宰相であった裴度と韋処厚の推挙により
刑部侍郎(司法次官)(正四品下)に任じられ、晋陽県男に封ぜられた。
晋陽は、かれの本貫であった太原の古称である。
春には、劉禹錫が長安に召還されて、主客郎中を経て集賢殿学士になった。

蝸牛角上

葛 藤

政事に熱心な文宗のもとで、五十七歳にしてようやく要職に就いた白居易であったが、
年末に持病の肺と眼の病のために、百日の休暇を請わざるを得なくなった。
そのころ、韋処厚が亡くなって、廟堂の風向きが変わりはじめた。
白居易の胸裡で、
——もう、ここらでよかろうよ。
という声と、
——ここで踏ん張れば、宰相になれるかもしれない。
という声がせめぎ合った。
——これを鎮めるのは、酒しかない。
白居易は酒を飲み、葛藤を打ち破るべく、「対酒五首」と、題する詩を詠んだ。

蝸牛角上

蝸牛角上 何事をか争う(かたつむりの角のような狭いところで何を争うのか)
石火光中 此の身を寄す(火打石の火花のように一生ははかない)
富に随い貧に随いて且く歓楽せん(富もうと貧しかろうと、まずは楽しもう)
口を開いて笑わざるは是れ痴人(酒に酔って愉快に笑わないのは、愚か者である)
百歳 多時の壮健なる無し(生涯で健康なときなんて、そんなにない)
一春 能く幾日の晴明ぞ(ひと春のうちに、晴れの日なんていったい何日あろうか)
相逢いて且つ酔を推辞する莫れ(晴れた春の日に逢って、酔うのに遠慮する必要なんてない)

かたつむりの左の角にある国と右の角にある国が争ったという『荘子』(則陽篇)にある寓話で
牛李の党争を一蹴し、高位への未練を断ち切った白居易は、
太和三年(八二九年)の春に、病と称して刑部侍郎を辞した。
五十八歳のかれにとって、この決断は出世競争からの離脱を意味する重大なものとなった。

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