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中国史人物伝

山越を震わす威を誇った知勇にすぐれた名将 賀斉(三国 呉)(1) 威震山越

三国時代に江南を支配した孫呉が、他の二国に比べ

天下一統に積極的でなかったように感じられる要因のひとつに、

度重なる周辺の異民族の反乱に手を焼いていたことが挙げられる。

呉において異民族平定で名をあげた将のひとりが、
賀斉(あざなは公苗)(?-237)
である。

賀斉は日本風にいえば"伊達者"で、派手なのを好んだ。

干櫓(たて)や戈矛(ほこ)には、花文様が色あざやかに描かれ、

船には丹朱がちりばめられた雕刻がほどこされ、

船上には青蓋(天子が用いる青い日よけ)を置き、絳襜(赤い幕)を垂らした。

かれがあたかも天子の出御を彷彿させるようなきらびやかな軍容をおしたてたのには、

自身の趣向であったこともあろうが、異民族を威圧する意図もあったのかもしれない。

賀斉は物語の『三国志』には登場しない人物ではあるが、

周瑜らに先んじて将軍を号したほど孫呉において評価が高かったことは、注目に値しよう。

中国史人物伝シリーズ

目次

会稽の賀氏

賀氏は、もとは慶氏といった。
賀斉の伯父の慶純は、儒者として高名で、後漢の安帝のときに侍中や江夏太守を歴任し、
官を去ると、公車で徴召(皇帝により察挙)された。
その際、安帝の父である劉慶(章帝の元太子)の諱を避けて賀氏に改めた。
慶純の弟で永寧県長となった賀輔の子が、賀斉である。

威震山越

賀斉は会稽郡山陰県の出身で、若くして郡吏となり、剡県の県長を代行した。
県吏の斯従が、任俠を気取って悪事をはたらいていた。
賀斉がこれを検治(取り締まる)しようとしたところ、
「斯従は県の大族で、山越(山岳地帯の原住民)をなつけております。
今日かれを取り締まれば、明日には寇が至りましょう」
と、主簿(庶務課長)に諫められた。これをきいて、
「そんな弱腰で、官吏がつとまるか――」
と、怒声を放った賀斉は、ただちに斯従を斬った。
すると、斯従の一族郎党が千余人を集めて県城を攻めてきた。
賀斉は吏民を率い、城門を開いて出撃し、叛徒を大いに撃ち破った。
このことで、賀斉の威は山越を震わせた。
後に太末県で反乱が起こると、太末県長代行に転任し、
そむく者を誅し、従順な者を保護しつつ、一年ほどで反乱を平定した。

南部都尉

建安元年(一九六年)、孫策が会稽郡を攻め、会稽太守の王朗を郡治の山陰から追い出して、
みずから太守になって会稽郡を治めるようになると、賀斉を孝廉に察挙した。
漢王朝は冶県に南部都尉府を設置して、会稽郡の南部を統治させていた。
そこに山陰を追い出された王朗が逃げこむと、候官県長の商升が王朗を援けるべく兵を起した。
候官は都尉府の下部機関であったが、それを県名にしたものである。
孫策は永寧県長の韓晏を南部都尉にして商升を討たせ、賀斉を後任の永寧県長とした。
ところが、韓晏が商升に敗れてしまった。
そこで、賀斉が韓晏に代わって南部都尉になった。
すると、商升が賀斉の威名を畏れ、使者をよこして盟約を申し入れてきた。
賀斉が禍福を告げ諭すと、商升は印綬をさしだして降服を願い出てきた。
ところが、賊の渠帥である張雅や詹彊らは降ることを肯んせず、商升を殺し、
張雅は無上将軍を、詹彊は会稽太守を称して抗戦を続けた。
勢い盛んな賊を討つには、兵が足りない。
そこで、賀斉は軍をとどめて兵を休息させた。
しばらくすると、偵諜から
「張雅が、何雄といがみあっております」
という報せを耳にした。何雄は、張雅の女壻である。
賀斉は、捕虜になっていた越人を帰し、内紛を煽らせた。
すると、両者の嫌隙が大きくなり、武力に訴えるしかないほどまでに膨らんだ。
ここで賀斉はようやく進軍して賊を討ち、一戦でおおいに撃ち破った。
張雅や詹彊らは震懼し、全軍を引き連れて投降してきた。

建安平定

建安八年(二〇三年)、建安県・漢興(呉興)県・南平県で反乱が起こると、
賀斉は建安県に兵を進め、そこに南部都尉府を置いた。
会稽郡は郡に属する各県より五千の兵を徴発して、県長にこれを率いさせ、賀斉の下知を受けさせた。
賊の洪明・洪進・苑御・呉免・華当ら五人はそれぞれ一万戸を率いて漢興に陣を布き、
呉五は六千戸を率いて大潭に陣を布き、鄒臨は六千戸を率いて蓋竹に陣を布き、
ともに豫章郡の餘汗県にまで兵を進めてきた。
賀斉は軍を率いて餘汗まできた。
——賊より兵数が少ないゆえ、深入りしてもあとが続かず、退路を断たれるのではないか。
賀斉はそう心配し、
「ここにとどまって、敵に備えよ」
と、松陽県長の丁蕃に命じた。
松陽は永寧の近隣で、賀斉はかつて丁蕃と同僚であった。
それゆえ、賀斉は丁蕃を信頼して重要な役目を任せた。
ところが、おなじ理由で丁蕃はそれを拒んだ。
かつての同僚の命を受けることを恥じたのである。
——やむなし。
賀斉は、丁蕃を斬った。
すると、軍中は震慄し、賀斉の命に従わない者がなくなった。
賀斉は兵を割いて一部を餘汗にとどめ、残りの兵を率いて漢興にむかって洪明らを討ち、
連戦連勝を重ねて洪明を戦死させると、呉免・華当・洪進・苑御はみな降服した。
次いで蓋竹へむかうと、呉五が降服し、大潭にせまると、鄒臨も降服した。
この戦いで賀斉は六千級を斬首し、名だたる渠帥をすべて捕らえた。県邑をもとのように立て、
この地域から一万人の兵を徴発して軍に組み入れた。
この功により、賀斉は平東校尉を拝命した。

建安十年(二〇五年)、賀斉は孫権の命により豫章郡の上饒県を討伐し、県を分割して建平県を立てた。

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