善は衆の主 苦悶の宰相 欒書(欒武子)(春秋 晋)(8) 鄢陵の戦い
紀元前575年6月甲午晦(29日)、晋楚両軍が、鄭の鄢陵で対峙した。
楚軍が布陣をはじめたのをみて、晋の厲公が攻撃を命じた。
楚軍は軽佻で、つけ入る隙が多分にある。
一方、厲公にも淖中にはまってしまうほどの軽躁さがある。
両軍のあいだで勝機がめまぐるしく入れ替わるなか、天はどちらに味方するのか。
中国史人物伝シリーズ
欒書(1) 邲の戦い
欒書(2) 善は衆の主
欒書(3) 揺蕩
欒書(4) 不戦条約
欒書(5) 苦悶
欒書(6) 内憂外患
目次
勇と礼
夜が明けると、両軍が干戈を交えた。
赤と黒で染められた大地が震え、喊声が晩夏の野天にこだまし、
鮮血が戦場を朱く染め、兵馬が濛濛と上げる砂塵が天を翳らせた。赤は晋の、黒は楚の軍装である。
晋軍で目立って奮闘したのは、郤氏の兵であった。
なかでも郤至の奮闘ぶりはすさまじく、精鋭ぞろいの楚の中軍の深くまで抉るように鋭く攻め込み、
共王の兵車に迫った。
共王をみると郤至は兵車から降り、かぶとを脱いでから趨り去った。
その後も二度も共王に出くわした郤至は、そのたびにおなじ礼容を繰り返したのであった。
共王はその礼容に好感をいだいたらしく、臣下に命じて郤至に弓を贈らせた。
夢 見
郤至のように戦闘の場裡でも礼を体現した人物は稀で、大多数の将士は功名にはやっていた。
魏錡
という名を憶えておられようか。
二十二年前の邲の戦いにおいて、趙旃とともに楚の荘王を挑発し、
戦端を開くに至った「二撼」のひとりである。
決戦をまえに、かれはふしぎな夢をみた。
目が覚めると、夢の内容が気になった魏錡は、
「月を弓で射て、退いて泥中にはいったという夢をみたんじゃが」
と、卜師に告げ、占ってもらった。
「姫姓は日で、異姓は月であり、きっと楚君のことでしょう。
楚君を射てから退いて泥中にはいるというからには、きっと死ぬことになるのでしょう」
これが、卦であった。
——楚君を射て、死ぬのか……。
夢見をひきずりながら戦場にでた魏錡は、共王のすがたをみとめるや、
車上から弓を引きしぼり、共王めがけて矢を放った。
なんと、魏錡が放った矢は、共王の目に中たった。
共王のまわりに兵車が群がったかとおもえば、魏錡の兵車のほうに一本の矢が放たれた。
その矢は、吸いこまれるように一直線に魏錡に迫ってきた。
そして、魏錡の項に刺さり、魏錡は弓袋に倒れこみ、夢見の通りとなった。
晋国の勇
共王の負傷で、晋軍の士気があがり、楚軍をしだいに押していった。
晋の中軍が、子重率いる楚の左軍と戈矛を交えていると、
「あの旌旗は、子重の軍麾(指図旗)じゃ」
という声が、晋の捕虜になっていた楚兵の中から挙がった。
厲公のかたわらにいた欒鍼が、すかさずそれに反応し、
「さきに、臣が使者として楚を訪問いたしました際、
晋国の勇とはどのようなものか、
と子重に訊かれ、臣は、好んで軍旅を整える、と答えました。
他にまだあるか、と訊かれましたので、常に余裕がある、と答えました。
いま、両軍が戦っているのに、使者を送らないようでは、軍旅を整えているとは申せません。
大事に臨んで言を違えるようでは、余裕があるとは申せません。
どうか子重に酒を贈っていただけないでしょうか」
と、厲公に言上した。
「よかろう」
と、厲公が言下に応じたのは、戦況が晋に優勢で、余裕があったからであろう。
欒鍼は厲公の車右であり、厲公のそばから離れるわけにはいかない。
そこで、厲公は臣下に命じて酒樽を持たせ、杯を捧げて子重の陣に遣わし、
「寡君には使者に遣わす人物が乏しく、われを同乗させて矛を持たせておりますゆえ、
みずから出向いて慰労することができません。
代わりにこの者に酒を贈らせることにいたします」
と、欒鍼の用向きを代弁させた。
「まえにあなたが申されたのは、果たしてこのことであったか。よう憶えておるぞ」
子重はそういうや、太鼓を打つ手を止め、杯を受けて贈られた酒を飲み干し、
使者を帰すと、ふたたび太鼓を打ち鳴らした。
夜明けにはじまった戦いは、日が暮れて夜空に星がみえるようになってもまだ終わらなかった。
計 策
夜になって両軍はようやく矛を収めた。
兵馬は疲労の極限に達し、明日の戦いを望む者などいなかった。
「楚は兵馬を補充させ、兵器を修繕させるなどして、明日の戦いに備えております」
偵諜から楚軍のようすをきかされて、晋の諸将は楚軍が立ち直ることを恐れた。
「なあに、案ずるには及びません」
苗賁皇はそういうと、
「兵車を検査して士卒を補充し、馬に秣を与えて兵器を修繕し、隊列を整えて陣を固め、
早朝に蓐(寝所)で食事を取って再び祈れ。明日また戦うぞ」
と、陣中にふれ回り、楚の捕虜を解き放った。
この苗賁皇の機転が、戦況を大きく変えることになる。
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