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中国史人物伝

孫呉四代に仕えた偉材 義行を成した人格者 鍾離牧(三国 呉)

三国時代、魏や蜀漢が天下統一をめざし活発に兵事を興したのに対し、

呉は異民族の叛乱に手を焼き、なかなか中原攻略に乗り出せないでいた。

そんな中、交州にある南海郡の太守に赴任したのが、
鍾離牧(あざなは子幹)
であった。

政治、軍事に異才を示し、長者の先例を踏襲しながら

呉王朝の難事を処理し、国内の安定に大きく貢献したかれは、

「威恩部伍、智勇分明、加操行清純、有古人之風」(『三国志』呉書 鍾離牧伝)

と、朝臣に評され、尊ばれた。

中国史人物伝シリーズ

目次

遅 訥

鍾離牧は会稽郡山陰県出身で、幼童時は動作が遅々として吃舌であった。
兄の鍾離駰は上計吏(都に会計報告する官)となり、若くして名声があったが、
「牧はきっと、われよりすぐれた人物になろう。軽んじてはならん」
と、いつも人に話していた。

義 行

鍾離牧は若いときに永興へ移り住んで、みずから墾田し、二十余畝(一ヘクタール強)に稲を植えた。
稲が熟すと、
「この地はわれのものだ」
と、主張する者があらわれた。すると、鍾離牧は、
「もともと田が荒れていたので、開墾したまでのこと」
と、いって争わず、実った稲ごと田地を相手方に譲った。
このことを伝えきいた県長(知事)は、この者を獄につなぎ、法に照らして罰しようとした。
鍾離牧がその者のためにとりなしたものの、
「君は義行をなさろうとされておいでじゃが、われは民の主ゆえ、法で下民を率いなければならぬ。
公憲をさしおいて、そんなことができようか」
と、県長は、聴きいれてくれなかった。
「君にご配慮いただき、この地に移り住んでしばらくとどまっておりましたが、
少々の稲ごときで民を殺すのでしたら、これ以上とどまるつもりはございません」
鍾離牧はそういうと、旅装に身を包み、山陰へ還ろうとした。
「そっ、それは、困る」
県長はみずから鍾離牧をひきとめにきて、獄中の者を釈放した。
その者は慙懼し、妻子をひき連れて、
稲を舂いて得た米六十斛(約千二百リットル)を鍾離牧のもとに送りかえしてきた。
鍾離牧は門を閉ざして受け取らず、米は路傍に置き去りとなり、受け取る者がなかった。
このことがあってから、鍾離牧は名を知られるようになった。

南海太守

仕官して郎中になった鍾離牧は、赤烏五年(二四二年)に孫和が太子に立てられると、
太子輔義校尉に補任され、後に南海太守に遷任された。
南海郡は交州の東部に位置し、揚州の南部とも接していた。
そこに鍾離牧が赴任した後、西隣の高涼郡の叛徒仍弩らが略奪をはたらき、吏民を残害した。
鍾離牧はその報せをきくと、越境して討伐し、旬日で降服させた。
また、南海郡掲陽県の叛徒曾夏らは、鍾離牧の赴任前から当地で独自の勢力を築いていた。
呉は十余年にわたりかれらに臣従するよう交渉を続けたものの、進展はなかった。
それが、鍾離牧が使者を派遣してかれらを慰譬(説諭)すると、
すぐにみな帰順し、朝廷に反抗的であったおこないを改めて良民になった。

山越平定

鍾離牧は南海郡に四年間赴任し、病のため辞職した。
その後、中央に戻って丞相長史になり、司直(裁判官)に転じ、中書令(皇帝の秘書官長)に遷任された。
太平二年(二五七)年、揚州の南部にあたる建安郡、鄱陽郡、新都郡の山越の民が反乱をおこした。
鍾離牧は監軍使者に任じられて丁密や鄭冑ともに討伐におもむき、反乱を平定した。
その功により、鍾離牧は秦亭侯に封じられ、越騎校尉を拝命した。

武陵五溪夷

武陵太守

永安六年(二六三年)、蜀が魏に滅ぼされると、
――武陵の五溪の蛮夷が、叛乱をおこすのではないか。
という議論がおこった。かれらの縄張りが、蜀と接していたからであった。
そこで、鍾離牧が平魏将軍兼武陵太守に任じられ、武陵郡におもむいた。
これにたいし、魏は漢葭県長の郭純を武陵太守に任じ、涪陵の民を率いて武陵郡へむかわせ、
蜀の遷陵のあたりまで進んで赤沙に駐屯し、五溪の蛮夷の渠帥らに誘いをかけさせた。
渠帥のなかには、郭純に応じるものもあった。

火貴速之勢

郭純がさらに進軍して酉陽県を攻めると、郡中は震懼した。
「蜀が傾覆し、辺境は侵されている。どうやって防げばよいんじゃ」
と、鍾離牧が郡の官吏にたずねたところ、
「いま二県は険阻な山地にあり、諸夷が兵をもって阻んでおりますゆえ、軍を動かして驚かせてはなりません。
そんなことをすれば、きゃつらは結束を固めてしまいます。
しばらく放っておき、吏人を遣ってかれらに恩賞を約し、ご教化を宣べ慰労なさいますのがようございます」
と、進言された。鍾離牧は首を横にふり、
「いや、ちがう。外部から侵略され、人民をたぶらかそうとしているときには、その根が深くなるまえに
全力で取り除かなければならぬ。いまはなるべく速やかに火を消しとめるべきなのじゃ」
と、反駁するや、全軍に速やかに出撃するよう命じ、属官で異議を唱える者がいれば、軍法に照らし処分した。

非常之事

「むかし、潘太常(潘濬)は、五溪の蛮夷を討伐するのに、五万の兵を率いておりました。
このときは、蜀と連和し、諸夷も教化を受け入れておりました。
ところが、いまはかつてのような援けもなく、郭純はすでに遷陵に居据わっております。
あなたは三千の兵で深入りなさろうとしておいでですが、われにはその利点がわかりません」
撫夷将軍の高尚にそうたしなめられると、鍾離牧は、
「非常事態じゃ。先例にならう必要などあろうか」
と、返し、手勢を率い、昼夜兼行で険阻な山道をぬいながら二千里を往った。
そして、五溪の蛮夷の塞に達すると、呉にそむいた渠帥ら百余人及びその徒党千余の首を斬った。
すると、郭純の軍勢は散り散りとなり、五溪は平定された。
その功により、鍾離牧は公安の督、揚武将軍に遷任され、都郷侯に封じられ、さらに濡須の督に徙った。

その後、鍾離牧は前将軍として仮節を授けられ、武陵太守を兼任した。
鍾離牧は死後に余財を遺さなかったため、士民から思慕された。

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