中隠を志向した閑居の達人 陶淵明や李白とならぶ飲酒詩人にして平安文化の恩人 白居易(白楽天)(唐)(5) 順風
元和元年(八〇六年)、白居易は制挙に及第し、盩厔(ちゅちつ)県の県尉に任じられた。
白居易は赴任先で徴税業務にあたり、困窮する農民に同情するとともに
その生活の苦しさをわかっていながらも
職務として税をとりければならない良心の呵責にさいなまれた。
翌年に都に召還され、翰林院へ登用され、翰林学士となった。
翰林院には、将来を嘱望される優秀な官僚が集められた。
そして、天子からの直接の諮問に奉答する官職についたのは、たいへん名誉なことであった。
中国史人物伝シリーズ
白居易(1) 寒門
白居易(2) 科挙
白居易(3) 仕官
目次
順 風
元和三年(八〇八年)四月二十八日、白居易は翰林学士のまま門下省左拾遺(従八品上)に任じられた。
皇帝に近侍する諫官である左拾遺は、文士の清官と称され、将来の出世が有望視された地位であった。
白居易は、憲宗にしばしば意見書を呈上し、昇進を重ねた。
かれはこれを誇りにおもい、いっそう職務に精励した。
さらにそのころ、白居易は楊汝士の妹と結婚し、公務ばかりか私生活でも充たされていた。
三十七歳にして妻帯者となった白居易は、十歳以上も若い新婦に詩を贈り、
生きては同室の親となり
死しては同穴の塵とならん
と、永遠の愛を誓った(「内に贈る」)。二人は、以後三十八年ものあいだ、連れ添うことになる。
翌年(八〇九年)には女が生まれ、翰林院にちなみ金鑾(きんらん)と名づけられた。
新楽府運動
長安に召還されてから、白居易は儒教的理想主義に立ち、政事を批判するような諷諭詩を多く詠んだ。
これは、国の乱れを憂えたことに加え、地方に出て人民の労苦を目の当たりにしたことから発した
経世済民の志の発露である。
左拾遺になり、多忙になっても、諷諭詩づくりに情熱を傾けた。
そして、そのうちの五十篇を集めて、「新楽府」としてまとめた。
これは、漢代からあった楽府を当代風に仕立てた律動的な作品であった。
そして、諷諭詩にことよせて政事や社会の矛盾を鋭く批判するような運動を展開した。
この運動には、この年の二月に母の喪を除き、
御史台の監察御史(正八品上)に擢用された親友の元稹もそれに加わった。
剛 直
白居易は詩を用いた諷諫のみならず、左拾遺の職掌たる皇帝への直諫も忌憚なくおこなった。
白居易は、憲宗と論争したことがあった。その際、かれは頑強に自説を譲らず、
「陛下は誤っておられます」
と、いい放った。白居易が退出した後、憲宗は色をなして、
「きゃつは朕が抜擢してやったのに、朕に無礼をはたらきおってからに。もう我慢ならん。必ず貶斥してやる」
と、翰林学士の李絳にぶちまけた。李絳のとりなしで何とかその場はおさまった、というようなことがあった。
一方、元稹は元和四年(八〇九年)五月に洛陽の御史台に左遷され、
翌年の二月に宦官と争ったのがもとで、三月に江陵府の士曹参軍に貶された。
白居易はただちに上書して元稹の罪の軽減を願い出たものの、聴きいれてもらえなかった。
位 望
元和五年(八一〇年)、白居易の左拾遺の任期が満了した。
白居易の資産が乏しく、家がもともと貧しかったことを鑑みて、
憲宗は白居易がみずから次の官職を択ぶことを許した。
――もっと出世するべきか、はたまた閑職に憩うべきか。
白居易は思い悩んだあげく、
「伏して以(おも)ふに、拾遺より京兆府の判司(長官の属官)を授けらるるは、
往年の(翰林)院中に、かつてこの例有り。資序(官位)は相類し、俸禄はやや多し。
もしこの官を授けらるれば、臣実に幸甚なり」(「奏陳情状」)
と、願い出て、五月五日に翰󠄀林学士のまま京兆府の戸曹参軍(正七品上)を授けられた。
平生の志
京兆府戸曹参軍の叙任をうけ、
「位望は小なりといえども、俸料はやや優り、臣今之を得るは、貴位に登るに勝るをや」(「謝官状」)
と、白居易は述べた。
これは本音なのか、それとも負け惜しみなのであろうか。
ともかくも、転任を期に、白居易は新昌里から宣平里へ転居した。
白居易は、ここに病身の母陳氏を招き寄せて隣防に住まわせ、二人の雇い女に世話をさせた。
閑居を望むかれとしては、忙しさから解放されて肩の荷がおりたおもいであったろう。
祝いに訪れた客に、白居易は、
「われに平生の志あり」
と、告げ、
浮栄及び虚位、皆是れ身の賓(客人)なり
苟も飢寒を免るるの外、餘物は尽く浮雲
などと、飾らない本心を吐露した(「初めてに戸曹徐せられ、喜びて志を言ふ」)。
しかし、四十歳を目前にしてせっかく得た理想の環境を、白居易は一年ほどで手放さざるを得なくなる。
母陳氏が、宜平里の家で亡くなったのである。
服 喪
元和六年(八一一年)四月三日に、母の陳氏が五十七歳で亡くなった。
白居易はただちに官を辞し、下邽に退居して喪に服した。
ほどなく、白居易は罹病した。
病が癒える前に、幼い金鑾も病に罹り、手当てのかいもなく十日ほどで死んだ。
わずか三歳の短い生命であった。
十月八日に、白居易は家から三里(約一・六八キロメートル)ほど離れた墓地に
祖父母や父を改葬するとともに、母と愛娘の亡骸を埋葬した。
白居易は眼を泣きはらし、老人のように憔悴した。
何といっても、気ぜわしいのがかなわない。
白居易は、詩を詠んで気を鎮めようとした。しかし、
「詩を詠んでも全く落ち着かん」
と、いらだつばかりであった。
これまでは儒教の理想主義から詩を詠んできた。
ところが、あいつぐ肉親の死に直面して、孤独と無力感にさいなまれつつ、
ひとの死に向きあおうと思索を深めてゆくと、
儒教がもつ倫理観では解決できないのではないか、とおもわざるを得なくなった。
そして、道教や仏教への関心を強めてゆくのであった。
翌年(八一二年)になると、白居易は目がかすむなどの眼疾に罹り、
目薬の「黄連」でも治らず、気がふさぐことが多くなった。
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