臥轍 光武帝に信頼され、人民から慕われた無私の宰相 侯覇(後漢)
国家の統治制度など知るよしもなかったであろう。
前漢や新で高官を務めていたかれらよりも一世代上の人物が、当時の制度を伝えなければ、
後漢が200年も統治を続けることはできなかったであろう。
なかでも、後漢の三代目の宰相として光武帝の治世において最長の在任期間を誇った
侯覇(あざなは君房)(?-37)
の寄与は特に多大であった。かれの善政は、
「侯覇臥轍」
という四字熟語になって、現在に伝わる。
中国史人物伝シリーズ
目次
家累千金
侯覇は、河南郡密県の出身である。
族父の侯淵は宦官で、元帝のときに中書令の石顕をたすけ、大常侍とよばれた。
成帝のとき、良家の子孫から択ばれる太子舎人(当直宿営の官)に任じられた。
侯覇は、矜厳(つつしみ深く、おごそか)で威容があった。
また、実家に資産があり、産業に従事しなかった。
侯覇は志が篤くて学問を好み、九江太守の房元に師事して『春秋穀梁伝』を修め、
房元の都講(塾生筆頭)になった。
新の大官
王莽が皇帝になり新王朝をひらくと、侯覇は王莽の片腕ともいうべき五威司命将軍の陳崇から推挙され、
隨県の県宰(県令)に任じられた。
隨県は広大で、湖沼もあるせいで、亡命してきた者の多くが盗賊になった。
侯覇は赴任すると、すぐさま群盗の首領を誅殺し、山賊を逮捕して県内を静穏にさせた。
その後、執法刺姦(司隷校尉、警察長官)に遷任し、権勢ある者を憚ることなく摘発した。
のちに、淮平大尹(臨淮太守)に転出すると郡内をよく治め、名声を得た。
新末の動乱で天下が乱れると、侯覇は郡内を固く守り抜いた。
臥 轍
更始元年(二三年)、新を滅ぼした更始帝(劉玄)が、臨淮に勅使を遣わして侯覇を徴召した。
臨淮の郡民は抱き合って号哭し、
「願わくば、侯君にもう一年でもとどまっていただけるようにしてくださいませんか」
と、いって、車道に臥すなどして勅使の車の行く手を遮った。なかには、
「子を産むのはやめておけ。侯君が去ってしまえば、育てることなどできなくなる」
と、妊婦に戒める者までいた。このようすに、勅使は、
――侯覇がいなくなれば、臨淮はきっと乱れよう。
と、考え、あえて侯覇に璽書(皇帝の辞令)を授けず、朝廷に事情を詳しく上聞した。
その後、更始帝が赤眉に敗れ、道路が不通になったため、異動は沙汰止みとなった。
徴 召
更始帝の武将であった劉秀が河北を平定して皇帝(光武帝)になり、洛陽を都に定めて関中を平定し、
東方の群雄も征討するようになると、淮水沿岸の治安はすっかりよくなり、
「寿春へ出游する」
という通達が、都から発せられた。
――ゆかずばなるまい。
臨淮を発った侯覇は、寿春へゆき、光武帝に謁見した。建武四年(二八年)の秋のことである。
「そこもとが侯君房か。評判はよく聞いているぞ」
「おそれいります」
朗らかな声で侯覇に話しかけてきた皇帝は、このとき三十四歳であった。
白髪交じりの侯覇からみれば、子に近い齢にあたる皇帝の威に打たれ、
なかなか顔をあげることができずにいると、
「もう臨淮のことは心配しなくてもよいであろう。これからは、朕を輔けてもらいたい」
と、いわれ、尚書令(尚書台の長官)を拝命した。
両朝をつなぐ
光武帝に随って帝都洛陽にはいった侯覇が着任すると、唖然とした。
尚書(皇帝の秘書官室)に先例を記した故典がなく、朝廷に故事を知る旧臣が少なかった。
光武帝が建てた王朝が、王莽に滅ぼされた漢王朝の復興をうたっておきながら、
前朝の先蹤を尊重しないとなれば、民心を離すことにもなりかねない。
「われがなすべきことが、わかったよ」
侯覇は前漢で宮仕えをして故事に通じており、遺文(現存する過去の文献)を尚書台に収録した。
そして、前漢の善政や法度で有益なものを箇条書きにして上奏した。
これをみて、光武帝はすべての事項を施行した。
さらに、毎年春に「寛大の詔」を下して人民に恵みを施し、
四季に応じた行事をおこなうよう建議したところ、光武帝はそれに従った。
鼎位と先例
侯覇が朝廷にはいってから一年が経ったころ、大司徒(首相)の伏湛が罷免された。
ほどなく、侯覇は光武帝のお召しを受けた。
「卿を大司徒にしたい」
という打診をうけ、侯覇は、
「臣は、陛下にお仕えしてからまだ日が浅うございますれば」
と、いって辞退したが、
「乱世にあっては、能力を重んじるもの。仕えた期間など、問題にならぬ」
と、光武帝が返してきたため、
「身に余る光栄に存じます」
と、拝受するしかなかった。光武帝がつづけて、
「ついては、卿を列侯(二十級で最上の級爵)に……」
と、いいかけたところで、
「お待ちくだされ」
と、侯覇が遮った。
「いかがいたした」
「天下はまだ統一されておらず、軍旅は露に暴され、
陛下と苦楽をともにした功臣たちがまだ封ぜられておりませぬゆえ、臣が先になってしまうのは……」
「それでは、大司徒は受けない、と申すか」
「いえ、封地は辞退させていただきとう存じます」
「ならば、関内侯(十九級で上から二番目の級爵)ならば、どうじゃ」
「かたじけのうございます」
「さようか。じゃが、つねづね漢家の旧制について述べている卿が、それを破るのは、いかがなものか」
「時はうつろうもの。現状に合わせて柔軟に運用なさるのが肝要にございます」
「卿がそう申すのであれば」
前漢の制度では、列侯でない者が宰相になる場合、宰相になると同時に、列侯に封建された。
しかし、建武五年(二九年)に大司徒に昇任した侯覇が封建を固辞して以降、
宰相に任じられても封建されない者が多くなった。
つまり、侯覇が先例をつくったことになる。
明察守正
侯覇は人臣の最高位にあって九年、明察で正道を守りつづけ、建武十三年(三七年)に亡くなった。
侯覇の死を深く哀惜し、みずから弔問をおこなった光武帝は、
「かれを大司徒に任じた時に、領地をさずけなかったことが心残りじゃ」
と、こぼし、亡き侯覇を則郷に追封して二千六百戸を食邑として授け、子の侯昱にそれを嗣がせた。
侯覇の死を悼んだのは、皇帝だけではない。
侯覇の善政を忘れていない臨淮の吏人は、侯覇のために祠を立て、四時の祭祀を絶やさなかった。
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