尊位を擲ち義俠に生きた合従論者 虞卿(戦国 趙)(1) 躡蹻檐簦
数多の歴史上の人物を活写し、昭和後半を生きた日本人の歴史観に多大なる影響を与えた
巨匠の筆名は、『史記』を著した司馬遷に由来する。
武帝の御前で匈奴との戦いで捕虜になった李陵将軍を弁護して武帝の怒りを買い、
宮刑に処せられ、宦官となった司馬遷は、
失意に打ちのめされながらも筆をふるい、130巻52万6500字からなる大著を完成させた。
そんなかれにとって、失意こそが著述の駆動力なのであろう。
司馬遷は、『史記』の中で、『虞氏春秋』を著した趙の宰相虞卿を列伝に立てた。
虞卿は下層たる遊説の士から趙の宰相になった人物で、合従論をとなえて趙を秦に対抗させた。
それなのに、魏の宰相であった魏斉が秦に睨まれて困苦し、おのれをたよってくると、
尊位や高禄を惜し気もなく投げうって魏斉と行動をともにし、困窮すらいとわなかった。
この俠気が、司馬遷の心を打ったようである。
結局魏斉を守り切れなかった失意が虞卿を執筆に駆りたてた、と『史記』に記した
司馬遷は、魏斉を李陵になぞらえ、虞卿を自身に重ねながら、筆を走らせたのかもしれない。
中国史人物伝シリーズ
目次
躡蹻檐簦
虞卿は遊説の士で、蹻(ぞうり)を躡み(履き)、簦(雨笠)を檐い(かぶって)、趙の孝成王を説いた。
最初の謁見で黄金百溢(約三十キログラム)、白璧一雙(一対)を賜り、
再度の謁見で上卿(大臣)に任じられ、三度の謁見で宰相に任じられ、万戸侯に封じられた。
それゆえ、
「虞卿」
と、よばれた。
長平の戦い
縦か横か
趙は長平で秦と戦って敗れ、都尉(指揮官)をひとり戦死させてしまった。
虞卿は、楼昌とともに孝成王のお召しをうけた。
「戦に敗れ、都尉も死んでしもうた。援軍を出そうとおもうんじゃが」
孝成王がそう語げると、
「無益なことです。使者を出して講和なさるのがようございます」
と、楼昌が応じた。孝成王が、目で虞卿に意見をうながした。
「楼昌が講和を勧めるのは、講和しなければわが軍が必ず敗れるとおもうているからです。
ですが、講和をするかを決めるのは、秦なのです。王は、秦が趙の軍を破る気でいるとお思いなのでしょうか」
虞卿がそうたずねると、
「秦は、きっと全軍をもって趙の軍を破る気でいよう」
と、孝成王はいい切った。虞卿は内心であきれつつ、
「王よ、どうか臣が申し上げますことをお聴きくだされ」
と、いい、続けてつぎのように進言した。
「楚と魏に使者をお遣りになり、宝物を贈って味方になさいませ。
楚と魏は王の宝物に目がくらみ、わが使者を受けいれましょう。
趙の使者が楚と魏に入ったとなれば、秦はきっと天下が合従するのではないかと疑い、恐れましょう。
そうなれば、講和することにあいなりましょう」
和議のゆくえ
孝成王は秦を恐れ、叔父である平陽君(趙豹)と和議を諮り、鄭朱を使者として秦へ遣った。
鄭朱が秦に入ってから、虞卿は孝成王に召し出され、
「寡人(諸侯の一人称)は平陽君に和議を進めさせ、秦はすでに鄭朱を受けいれた。さて、卿はどうするか」
と、得意げに諮われた。
「講和は成らず、軍はきっと敗れましょう。天下から戦勝を賀う使者が、秦に集ってまいります。
鄭朱は趙の貴人です。秦は鄭朱を丁重にもてなして、それを天下にひけらかしましょう。
楚と魏は、趙が秦と講和したとおもい、きっと王に救援を出しますまい。
天下が王を救わないと知れば、秦が講和に応じるわけがないでしょう」
はたして、虞卿のこのことば通り、秦は講和に応じず、趙軍は大敗してしまった。
福と禍
あるとき、魏が趙に合従を申し入れてきた。
虞卿は孝成王のお召しを受けた。
虞卿が参内をしようとすると、
孝成王の叔父である平原君(趙勝)から使いがきて、邸へ立ち寄るようにいわれた。
虞卿がその通りにすると、
「合従を主張していただきたい」
と、平原君から頼まれた。
その足で宮中に参内すると、
「魏が合従したいと申し入れてきたんじゃが」
と、孝成王が話を切り出してきた。すると、虞卿は、
「魏は、過ってございます」
と、返した。孝成王が、
「寡人はまだ合従を許しておらぬ」
と、いうと、虞卿は、
「王も過ってございます」
と、返した。孝成王は首をかしげ、
「魏が合従したいと申し入れてきたことを告げると、卿は、魏、過てり、といい、
寡人が合従を許しておらぬ、というと、卿は寡人が過っているという。
それなら、合従はしないほうがよいのか」
と、問うた。そこで、虞卿はつぎのように説いた。
「小国が大国とともに事をおこなえば、よいことがあれば大国がその福を受け、
よくないことがあれば小国がその禍を受ける、と臣は聞いてございます。
いま、魏は小国であるのに禍を受けようとし、王は大国であるのに福を辞退しました。
それゆえ、臣は、王も魏も過っている、と申し上げました。
ひそかに考えまするに、合従なさるのがようございます」
それをきいて、孝成王は、
「わかった」
と、応じ、魏と合従した。
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