Blog ブログ

Blog

HOME//ブログ//善は衆の主 苦悶の宰相 欒書(欒武子)(春秋 晋)(3) 揺蕩

中国史人物伝

善は衆の主 苦悶の宰相 欒書(欒武子)(春秋 晋)(3) 揺蕩

欒書(1)はこちら≫

欒書(2)はこちら≫

紀元前587年に晋の宰相となった欒書は、軍事も外交も無難にこなした。

そのようななか、欒書は為政者としての姿勢を示す善言を吐いた。

紀元前585年、欒書率いる晋軍は、外征の最中に、覇権を争うライバルである楚軍に遭遇した。

諸将の多くが交戦を主張する中、三人の卿だけが欒書に引き揚げを進言した。

このような場合、多数の意見に従うのが普通であろう。

しかし、欒書は、

――善が鈞しければ衆に従う。(『春秋左氏伝』成公六年)

と、採択の原則を述べ、さらに、

――善は衆の主なり。(同上)

とつづけ、見識の高い三人の卿の意見に従って引き揚げた。

この発言からして、欒書は、すぐれた政治的な平衡感覚をそなえた

慧性の人物であったと評価してよいのではなかろうか。

中国史人物伝シリーズ

目次

趙氏討伐

密 告

景公十七年(紀元前五八三年)、欒書は蔡を伐ち、さらに楚に攻めこんで楚の大夫申驪を捕えた。
欒書が凱帰し、復命をおこなった後、趙朔の夫人であった趙荘姫の家来が訪れ、
「原と屏が不穏な動きをみせております」
と、告げてきた。原は趙同の、屏は趙括の食邑である。
三年前に、趙同と趙括が弟の趙嬰斉を放逐したことがあった。
というのも、趙嬰斉が甥の未亡人であった趙荘姫に密通していたからである。
名家の御曹司が密通しても、奇異にきこえないかもしれない。
しかし、その相手が君主の姉となれば、穏やな話では済まされない。
趙同と趙括は外聞を憚り、弟を追放した。
妥当な処置であろう。
だが、愛する趙嬰斉を失った趙荘姫の怨恨は、時を経ても消えなかったようである。

討 伐

――これで、趙氏をたたけるわ。
欒書は内心でほくそ笑みつつ、
「君に申し上げてくだされ」
と、趙荘姫に助言した。
ほどなく景公からお召しを受け、
「二卿に異心ありときいたが」
と、諮問された。
「まことにございます」
欒書がそう応えると、
「ならば、討ってまいれ」
と、命じられ、趙同と趙括を討った。
趙氏の家主であった趙括が殺されて、趙朔の遺児趙武が家督を襲ぐことになった。
だが、かれはまだ十三歳で、生母の趙荘姫とともに公宮で育てられることになった。
そこで、景公は趙氏の封地を祁奚に与えた。

新勢力

鞍の戦いから六年が経った景公十七年(紀元前五八三年)、
晋は斉が改心して従順な姿勢をみせたことに満足し、魯に汶陽の田を斉に返すよう命じた。
汶陽の田は、魯の宰相を代々務める季氏の封邑であった。
魯は汶陽の田を譲渡したものの、不服の色を隠さなかった。
――諸侯からの信頼が、揺らいでいる。
そう感じた欒書は、韓厥に最善策をたずねた。
「呉を、会同に招かれてはいかがでしょうか」
「呉か……」
想定していなかった応えに、欒書はおもわずうなってしまった。
それにしても、韓厥の目のつけどころは尋常ではない。
楚の東隣にある呉との同盟は、楚への牽制になる。
呉といえば、その前年に屈巫が使いに出て、国交を開いたばかりであった。
屈巫とは、妻の夏姫を伴って楚から亡命してきたもと申公の巫臣のことである。
晋は、屈巫をふたたび呉に遣わし、会同への参加を呼びかけさせた。

蒲の会同

景公十八年(紀元前五八二年)正月、晋は衛の蒲に諸侯を集め、会同をおこなった。
この会同には、斉、宋、魯、衛、鄭、曹、莒、杞の君主が集まった。
――呉は、来なかったか。
と、落胆していたところに、魯の宰相季孫行父から、
「積徳に励まずに盟ったところで何になりましょう」
と、皮肉を浴びてしまった。
汶陽の田を奪われたことを根にもったかれの発言に、
「勤めて慰撫し、寛大に扱い、我慢強く制御し、神に誓って盟約を固くし、
服従する者を安んじて二心ある者を伐つのが、積徳に次ぐやり方です」
と、士燮が返してくれたものの、盟主国としての晋の威信が揺らいでいたことは隠しようがなかった。
そして、ついに、威力で諸侯を抑えつけようとする晋のやり方に反発した諸侯があらわれた。

使者を斬る

蒲の会同から帰ってきてまもなく、
「鄭君が、楚に出むいた」
という報せが晋の朝廷にはいってきた。
秋に鄭の成公が訪ねてくると、景公は、
「裏切り者めが、どの面さげてやってきたのか」
と、怒声を放ち、成公を捕え、別宮のある銅鞮に幽閉した。
「鄭を伐て」
欒書は景公からそう命じられ、兵を率いて鄭を攻めた。
鄭は伯蠲を遣って和睦を求めてきたが、欒書は面会せずに、
「斬れ」
と、命じた。
交戦中であっても、使者の往復は認められていたが、
――二度と逆らえぬよう、懲らしめよう。
というおもいから、欒書は異例の対応にでたのである。

厲 公

太子州蒲

晋は、鄭への攻撃の手をゆるめない。
景公十九年(紀元前五八一年)、晋は盟下の衛に命じ、鄭を攻めさせた。
すると、鄭は新君を立ててしまった。
欒書は、鄭君が空質になってしまうことを心配し、
「鄭人が別に君を立ててしまった。こちらが一人(成公)を捕えたところで、何の益があろうか。
鄭を伐って鄭君を帰し、和睦を求めるのがよい」
と、廟議で述べ、会同をひらいて鄭を伐つことを諸侯に告げた。
このころ、景公は罹病していたため、太子州蒲が代わりに会同を主宰した。
集まってきた斉、宋、魯、衛、曹の君主をまえに、州蒲はことあろうに、
「無益な戦いをしても、せんないことじゃ。鄭と盟うにしかず」
と、宣言し、諸侯らをおどろかせた。

贈 賄

――どういうことじゃ。
欒書は耳を疑い、家臣に命じ、事の経緯を調べさせた。
「太子が鄭から賂を受け、和睦に応じられたよしにございます」
そうきかされて、欒書は、
――これから、このお方にお仕えせねばならんのか。
と、頭をかかえた。
景公の病状は、それほど悪化していたのである。
晋は鄭と盟い、子駟が人質として晋に送られてくると、
五月辛巳(十二日)に、鄭の成公を釈放し、帰国させた。
六月丙午(七日)に景公が亡くなり、太子州蒲が即位した。
これが厲公である。

SHARE
シェアする
[addtoany]

ブログ一覧