中隠を志向した閑居の達人 陶淵明や李白とならぶ飲酒詩人にして平安文化の恩人 白居易(白楽天)(唐)(3) 仕官
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貞元十八年(八〇二年)、白居易は、冬に行われる銓試の試判抜粋科を受ける決心をした。
同じ銓試に、九年前に十五歳で省試の明経科に及第していた七歳下の
元愼(あざなは微之)(779-831)
も挑もうとしていた。
元愼と知り合った白居易は、ほどなく打ち解けて、
「元九」
と、元愼を排行で呼び、詩を贈り合う仲になった。
中国史人物伝シリーズ
目次
銓 試
銓試には、博学宏詞科と試判抜萃科の二つの科があった。
前者は詩作に、後者は論文に重点を置いた。
このうち、詩作が得意な白居易が挑んだのは、試判抜萃科であった。
これは、祖父の名(鍠)と同音(宏)の科を避けたともいわれる。
貞元十八年(八〇二年)十一月、白居易と元愼は試判抜萃科を受験し、
翌春の合格発表において、二人は合格者八人のうちにそろって名を連ねた。
白居易は首席、元愼は五位での合格であった。
翌年、白居易は元愼とともに秘書省校書郎(正九品上)に任じられた。
秘書省は宮中の図書館で、校書郎は宮中の書籍を管理する官である。
閑職ではあるものの、文人官僚が官界に踏み出す第一歩としてふさわしい地位といえるのではなかろうか。
仕 官
白居易は任官すると、常楽里にあったかつての宰相関播の私邸の東亭を借りて通勤した。
常楽里は、長安外郭城の東壁の中門である春明門の近くにあった。
しかし、校書郎の俸禄では、
――薄俸未だ家に及ばず(「思帰」)。
と、経済的な事情から、半年ほどで長安のはずれ永崇里にある華陽観という道教の寺院へ移った。
貞元二十年(八〇四年)になると、白居易は洛陽にいる母のもとへゆき、
兄につづく進士科突破をめざしていた白行簡を励まして、さらに徐州に旅をした。
徐州に到ると、徐泗濠節度使の張愔の宴席に招かれて、歓待を受けた。
銓試に合格し、白居易の声望が高まっていたのであろう。
その後洛陽にもどり、下邽を経て、長安に帰ったころには年が変わっていた。
気鋭の士
貞元二十一年(八〇五年)正月二十三日に徳宗(玄宗の曽孫)が崩じ、太子の李誦が即位して(順宗)、
王叔文らを起用し、政治改革を推し進めようとした。
かれらに引き立てられた気鋭の官僚に、白居易と同い歳の劉禹錫や一歳下の柳宗元がいた。
白居易はそのころ読んだ詩(「春中与廬四周諒華陽観同居」)の中で、
「芸閣(校書郎)官微にして貧を救はず」
と、嘆きつつ、
「知らず 霄漢 何人をか待つ(朝廷ではいったいどのような人を用いようというのか)」
と、おのれが擢用されることを期待した。
しかし、白居易には声がかからなかった。
この現実に白居易は慨嘆し、
――及第が早かっただけではないか。
と、胸裡で毒づくとともに、出世が見込めないことに焦燥した。
永貞の変
性急に改革を推し進めようとした王叔文ら改革派の官僚に対し、宦官らが軍の指揮権を掌握して巻き返し、
八月四日に順宗を退位に追い込み、太子の李純を擁立した。これが憲宗である。
唐朝は皇帝が崩じた次の年を新帝の元年とする踰年称元法が採られていたため、
貞元二十一年のまま改元されていなかった。
そこで順宗が退位した八月に永貞と改元した。
「永貞の変」
と呼ばれたこの政変で、改革派は粛正された。
王叔文は渝州司戸参軍に貶され、翌年死を賜った。
王叔文に引き立てられた劉禹錫や柳宗元ら八人は、遠八州の司馬に左遷され、
「八司馬の貶」
と、称された。
それを知って、
――擢用されなくてよかった。
と、白居易はおもったかもしれない。
制 挙
憲宗が即位してまもなく、
「制挙をおこなう」
という通知がされた。
制挙(制科)は、銓試よりも上位とされる特別任用試験で、皇帝の親試である。
「制挙を受けようとおもう」
白居易は元愼にそう打ち明けると、元愼は職を辞して華陽観に移ってきた。
翌年(八〇六年)正月十九日に順宗が四十六歳で亡くなると、憲宗は元和に改元した。
三十五歳になった白居易は校書郎をやめ、
元稹とともに華陽観に閉じこもって十二年ぶりにおこなわれる制挙受験に備えた。
そのときにつくられた模試とそれに対する答案が、
「策林」である。
白居易と元愼は、元和元年(八〇六年)四月に、制挙の才識兼茂明於体用科を受験した。
四月二十八日に、白居易は第四等で、元稹は第三等で及第した。
制挙は第一等と第二等を置かないため、元稹が実質上の首席、白居易が次席での合格であった。
皇帝の親試に首席で及第した元稹は、門下省の右拾遺(従八品上)に任ぜられた。これは、大抜擢といえよう。
そして、次席の白居易は、盩厔(ちゅちつ)県の県尉を授けられた。
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