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中国史人物伝

苦悶の宰相 欒書(欒武子)(春秋 晋)(2) 善は衆の主

欒書(1)はこちら≫

紀元前597年、邲の戦いで晋軍は楚軍に敗れた。

これにより、晋は文公のときに得た覇権を失ってしまったものの、

中原諸国の盟主としての勢力は保持し続けたまま5年が経ち、

郤克が宰相となった。

郤克は、斉に使いした時にに辱めを受けた遺恨を晴らさん、

と報復の機会をうかがっていた。

中国史人物伝シリーズ

目次

謙 譲

景公十一年(紀元前五八九年)、斉に攻められた魯と衛が晋に援軍を要請してきた。
宰相の郤克はこれを容れて、兵車八百乗(六万人)を率いて斉に侵攻した。
この戦いで、欒書は下軍の将に任じられた。
六月癸酉(十八日)、晋軍は鞍で斉軍と戦い、大いに破った。
郤克が凱帰して景公に復命すると、
「あなたの力だ」
と、ねぎらわれた。郤克は首を横にふり、
「君のお教えに従い、三軍の士に命じ、三軍の士が君命に従ったまでにございます。
たれの力かといえば、二三子の力にございます。臣に何の力などございましょうや」
と、謙遜をみせた。
続いて、上軍を率いた士燮(士会の子)が景公に拝謁した。
「あなたの力だ」
景公がそうねぎらうと、士燮は首を横にふり、
「元帥の命に従ったまでです。戦時には中軍の命を受け、それを上軍の士に命じ、
上軍の士が元帥の命に従ったまでです。臣に何の力などございましょうや」
と、謙遜をみせた。こんどは欒書が景公に拝謁した。
「あなたの力だ」
景公がそうねぎらうと、欒書は首を横にふり、
「士燮の命に従ったまでです。戦時には上軍の命を受け、それを下軍の士に命じ、
下軍の士はその命に従ったまでです。臣に何の力などございましょうや」
と、謙遜をみせた。
三将がみなおのれの功を誇らずに、他人に譲った。
二年後、郤克が亡くなり、欒書が宰相となった。

善は衆の主

初采配

鄭と許が、長年にわたり反目を続けていた。
事の発端は、春秋時代最初の覇者ともいうべき鄭の荘公のときに、
魯と湯沐の邑である魯の許と鄭の祊を交換する約定を交わしたのであるが、
許が鄭に支配されることを拒んで鄭に抵抗したことにある。
これが百三十年経ってなお続いている。
景公十三年(紀元前五八七年)、鄭の襄公が亡くなったが、許は鄭に弔問しなかった。
あとをついだ悼公はこれを怒り、許を伐った。
「鄭を、とがめねばなりませぬ」
欒書は景公にそう言上し、冬に中軍と上軍を出して鄭を伐った。
師旅において、宰相は元帥たる中軍の将となる。
欒書がはじめて中軍の将となった出師は順調に勝ち進み、汜と祭の二邑を攻め取るという戦果を挙げた。
欒書は凱帰すると、ほっと胸を撫でおろした。

鄭の悼公

翌年、鄭が晋に使者を送り、帰服を申し出てきた。
晋がこれに応じると、鄭の悼公が八月に晋を訪れてきて、垂棘で趙同と盟いを結んだ。
「鄭がわが方についたことを明らかにせねばならぬ」
十二月己丑(二十四日)に、鄭の蟲牢(虫牢)に
斉、宋、衛、鄭、曹、邾、杞の君主を集めて景公が主宰する会同をおこなった。
年が明けると、悼公が謝辞を述べに晋を訪れてきたのであるが、景公に進物の玉を奉呈する際に足早に進み、
勢いあまって本来の位置を通り過ぎてしまった。
――これは、大夫の聘礼である。
とくに、士渥濁(士燮の再従兄弟)にいたっては、
「鄭伯は死ぬであろう。おのれを棄てている。目に落ち着きがなく、足早であった。
その位に落ち着いてもいなかった」
と、かなり辛辣なことをいった。
果たして、悼公は六月壬申(十日)にこの世を去った。

天子の軍

このころ、楚が鄭にむけて兵を進めていた。
これに対し、欒書は六軍を率いて鄭への援軍を発した。
各軍を率いる諸将は、以下の通りである。
中軍 将 欒書 佐 荀首
上軍 将 荀庚 佐 士燮
下軍 将 郤錡 佐 趙同
新中軍 将 韓厥 佐 趙括
新上軍 将 鞏朔 佐 韓穿
新下軍 将 荀騅 佐 趙旃
古の制では、六軍を保有できるのは、天子だけと決まっていた。
それなのに、大国とはいえ、諸侯でありながら六軍を編成してしまったところに、晋の不遜がみえる。
(それでも、六軍を保有し続けるほどの国力までは有していなかったらしく、
ほどなく中上下新の四軍に減らしている。)

方 城

欒書は、河水(黄河)を渡ると、諸将を集めて軍議を開き、
「どこに兵をむければよいか」
と、諮うた。
「方城へむかって進みましょう」
と、述べたのは、韓厥であった。
方城とは、楚の北境にある長城である。
そこへむかって進むということは、楚を攻めることにほかならない。
諸将は、いちように韓厥に驚きの目をむけた。
「われらが楚を狙うそぶりをみせれば、楚将もあわてましょう。そうなれば、鄭を救うことができましょう」
「あいわかった」
韓厥の大胆な策を容れて、軍を南進させたのであるから、欒書も剛胆な将であったといえよう。
じつは、楚軍は行軍中に鄭の悼公の死を知り、侵攻を止め、引き返していた。
そのため、晋軍は楚軍を追いかける形になり、方城の手前にある繞角で追いついた。
両軍は対峙し、互いに牽制し合った。
その後、楚軍は方城の内にはいっていった。

善は衆の主

「どうする」
と、欒書は韓厥に問うた。このまま楚軍を追撃するのかどうかをたずねたのである。
「蔡を攻めましょう」
周辺で楚の盟下にある国は、蔡であった。
晋軍は軍頭を東南に変え、蔡に侵攻した。
すると、楚の援軍が桑隧まで出張ってきた。
「楚軍に当たらせてください」
趙同と趙括の兄弟が、そう申し出てきた。
「よかろう」
と、欒書が腰を浮かしたところ、荀首と士燮、それに韓厥に、
「なりませぬ」
と、制止され、
「われらは鄭を救うために来ましたが、楚軍がわれらを避けたために、やむなくここまで来てしまいました。
これは、八つ当たりというものです。
無辜の者を殺戮して飽き足らず、楚まで怒らせれば、戦ったとしてもきっと勝てないでしょう。
勝ったとしても、よいことなどございません。
六軍まで出しておきながら楚の二県を敗ったところで、何の栄誉がありましょうや。
もし勝てなければ、これ以上の恥辱はございません。還るのがようございます」
と、説いてきた。
――還る、か。
欒書は腕組みをして宙をみつめ、考えこんだ。
「聖人は大衆と望みを同じくします。それゆえ成功するのです。
どうしてあなたは大衆の望みに従わないのですか。
あなたは大政を司っておられますから、民心を汲み取らなければなりません。
あなたの輔佐は十一人おりますが、楚との戦いを望まないのは三人だけですから、
決戦を望む者の方が多いといえましょう。
商書に、三人が占えば二人の卦に従う、とございます。多い方の意見に従うということです」
その場にいた者がそういって、欒書に決断を促してきた。
欒書は組んでいた腕を解き、
「どちらも善い意見なら多い方に従おう。
じゃが、善言は大衆の主というべきものであり、三卿はその主じゃ。
戦いを避けよ、という意見の方が多数といってよいであろう。三卿の意見に従うのがよい」
と、いい、引き揚げ命令を出した。
この発言は、多数決のあるべき形を示した欒書一代の名言といってよいであろう。

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