浪人転じて人気詩人⁉ 漢代随一の文豪 司馬相如(前漢)(2) 天子游猟の賦
――出世するまで故郷には帰らじ。
司馬相如は、不退転の決意で都へ上ったものの、宮仕えが性にあわず、
梁王のもとに寄寓し、鄒陽や枚乗ら「遊説の士」と生活をともにし、
『子虚の賦』を著した。
ところが、梁王が亡くなると、夢破れて故郷に帰るしかなかった。
貧窮にあえぐ相如を見かねて声をかけてくれたのが、
かねてから仲がよかった臨邛県の県令王吉であった。
臨邛は、鉄の産地で富豪がいる。
そのうちのひとり卓王孫には、
卓文君
という妙齢の女があった。
――寡婦(未亡人)になったばかりのかの女に挑んでみないか。
そうもちかけられた相如は、王吉と語らい、
卓王孫の気を引くため、わざと丁重に接しあうふりをした。
そのかいあって、卓王孫は相如を招いて宴をもよおした。
そこで相如は、心のうちを琴の音に託して、卓文君に誘いをかけた。
はたして、宴のあと、文君は相如のもとをおとずれてきた。
中国史人物伝シリーズ
目次
相如四壁
「文君どのですね」
相如からそう問いかけられて、黙ってうなずいたかの女は、うわさにたがわぬ花顔のもち主であった。
「さあ、まいりましょう」
相如は文君の手をとって馬車にのせ、成都に馳せ帰った。
「着きましたよ」
相如にそういわれて、文君が目の当たりにしたのは、
――家居ただ四壁立つのみ。(『史記』司馬相如列伝)
という光景であった。文君は、肩を落とした。
一方、卓王孫は女が駆け落ちをしたと知ってたいそう怒り、
「つまらん女じゃ。殺すにはしのびないが、一銭だってわけてやるものか」
と、喚き散らした。
ふたりのためにとりなしてくれた人もいたらしいが、卓王孫は聴きいれなかったという。
卓王孫からの支援が見込めない以上、自力で困苦を打開するしかない。
しかし、これまで裕福な暮らしに慣れてきた文君は、あまりの貧乏暮らしに耐えかねて、
「臨邛へゆきましょう。兄弟からお金を借りれば、どうにか生きてゆけましょう。
なにもみずからこうも苦しまなくてもよいのではなくって」
と、相如の尻をたたくようにいった。
相如は文君とともに成都を発ち、臨邛へむかった。
文君当爐
相如は臨邛に到ると、車馬をみな売り払い、その金で酒肆を購入した。
そして、文君に女将になってもらい、
おのれはふんどしをつけて使用人とともに立ちはたらき、市中で酒器を洗ったりした。
卓王孫はこれをきいて恥ずかしくおもい、門を閉じて外出しなくなった。
文君の兄弟や長老たちが、
「子どもは一男二女のみで、財産が足りないわけでもありません。
いま文君はすでに司馬長卿(相如)といっしょになってしまいましたが、
長卿はもとは宮仕えに倦きて貧しいとはいえ、みどころのある人物です。
それに県令の客でもあります。それをどうしてこんなに辱めておかれるのでしょうか」
と、かわるがわる王孫を説いた。
「ええい、わかった」
卓王孫はやむを得ず文君に家僮百人と銭百万、さらに嫁入り用の衣服や調度品もあたえた。
「これで、なんとかなりましょう」
相如は文君とともに成都へ帰り、田宅を買って富人になった。
拝 謁
その後、しばらくすると、武帝の使者が相如のもとを訪れ、宮中に召しだされた。
――またゆくことになろうとは。
都への途次、相如は奇異なおもいがしたが、なぜか、今度こそは、という気負いはなかった。
相如は長安に到ると、宮中に参内し、武帝に拝謁した。
――このお方が、先帝の御子か。
と、おもわれるほど、相如がいだいた武帝への第一印象は景帝に対するものとは大きく違った。
臣下が皇帝を直視することは非礼にあたるため、相如が武帝の表情を窺い知ることはできないが、
そこはかとなく柔和な雰囲気を感じ、親しみをおぼえた。
「この賦は、そこもとがつくったものか」
武帝は相如に木簡を手渡して、おごそかな口調でそう諮いかけてきた。
そこには、見憶えのある文辞が記されていた。
『子虚の賦』であった。
相如は、しめた、とばかりに、
「さようでございます」
と、応え、つづけて、
「しかし、これは諸侯のことをのべたまで。陛下のお目にかけるほどのものではございません。
どうか、『天子游猟の賦』をつくらせていただきとう存じます」
と、武帝に願い出た。
「よかろう。つくってみよ」
武帝はそういって、尚書(文書をつかさどる官)に命じて筆と札(文字を書きつける木片)を相如にあたえた。
天子游猟の賦
相如は退出してから、詩賦の構想にかまけた。
かれの脳裡に浮かんだのは、子虚、烏有先生および無是公という三人の架空の人物であった。
子虚には、「このひとなし」、
烏有先生には、「そんなことあろうか」、
無是公には、「そんなひといない」、
という意をこめ、子虚に楚王が雲夢沢で狩りをしたようすを述べさせて楚を称めたたえさせ、烏有先生にそれを非難させた。
さらに、そんなふたりを無是公に非難させた。
賦には、諷諫の要素も必要とされた。
相如は、三人の口を借りて、狩りや酒宴をはじめとした奢侈を戒めるよう説き、武帝を諷諫しようとした。
こうしてつくりあげた
『天子游猟の賦』
を、相如が奏上すると、武帝はおおいに悦び、
「気に入った。そこもとを、郎(皇帝の侍従官)に取り立てよう」
と、いった。
ひさびさの宮仕えである。
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