Blog ブログ

Blog

HOME//ブログ//「漱石」の生みの親 負け惜しみが強い孤高の士 孫楚(魏晋)心友はお坊ちゃま

中国史人物伝

「漱石」の生みの親 負け惜しみが強い孤高の士 孫楚(魏晋)心友はお坊ちゃま

平成14年(2002年)に野球殿堂入りを果たした俳聖 正岡子規は、

みずからの名(升)をもじった「野球」(の・ボール)のほか、

「獺祭書屋主人」(机のまわりを本が囲んでいる様子)
「四 国 仙 人」  (伊予国松山藩出身)
「仙台萩之氶」 (仙台藩の伊達騒動を題材にした歌舞伎から)
「沐 猴 冠 者」  (『史記』項羽本紀から)
「饕 餮 居 士」  (饕餮は中国の神話に登場する魔獣で、魔除けの意をもつ)
「蕪        翠」  (無粋)

など百余の雅号をもったらしい。そのなかに、
「漱石」
もあったが、友人に譲ったという。

その友人こそ、殿堂入り当時の千円札の"顔" 夏目漱石(金之助)である。

「漱石」の由来は、漫画『名探偵コナン』の灰原哀 初登場回(*)で、
「石に漱ぎ 流れに 枕す」
と、主人公が語っていた有名な故事で、その意味は、「偏屈」である。

子規も漱石も変わり者を自認していたようであるが、その語を発した
孫楚(あざなは子荊)(?-293)
も、相当な変わり者であった。

中国史人物伝シリーズ

*:単行本第18巻「黒の組織から来た女」
アニメ シーズン4 第129話「黒の組織から来た女 大学教授殺人事件」

目次

仕 官

孫楚は并州太原郡中都県出身で、祖父は魏の明帝(曹叡)の側近で驃騎将軍にまで昇った孫資、
父の孫宏は南陽太守という名家の出身であった。
孫楚は文才にすぐれ、能弁であったが、才能を鼻にかけて傲岸不遜なところがあり、
郷里での評判は芳しくなかった。
そのせいか、孫楚はなかなか官途に就けず、
『礼記』で仕官の適齢期とされた四十歳をすぎてから、ようやく参鎮東軍事になった。
司馬昭が孫晧に降伏を勧める使者を遣わす際、
上司であった鎮東将軍の石苞(あざなは仲容)から孫晧への書翰の作成を命じられた。
これが、「石仲容の為に孫皓に与うる書」である。
しかし、使者が孫晧に面会できなかったため、孫晧がこの書を目にすることはなかった。

反 目

武帝(司馬炎)が晋王朝を開いた後、孫楚は佐著作郎を経て参驃騎軍事に遷った。
上司である驃騎将軍は、またもや石苞であった。
――なにゆえ、こんなくだらないやつの下位に甘んじなければならんのか。
矜持が高い孫楚は、寒門の出であった石苞を軽侮した。
それゆえ、任官の際に、孫楚は石苞にむかって長揖し、
「天子が、われに卿の参軍事になるよう命じられました」
と、いった。
孫楚を参軍事に擢用してくれたのは、皇帝ではなくて、驃騎将軍たる石苞であった。
その恩を無みしたこの発言で、両者のあいだに嫌隙が生じ、たがいに反目しあうようになった。
「孫楚が、呉人と一緒になってご政道を批難しております」
と、石苞が上書して弾劾すれば、孫楚もまた上書して弁明した。
このようにふたりはたがいに折りあわず、何年にもわたって紛争をつづけた。
そればかりか、孫楚は同郷の郭奕(郭淮の甥)とも諍いが絶えなかった。

龍 孽

孫楚に救いの手をさしのべたのは、旧交があった征西将軍扶風王の司馬駿(司馬懿の子)であった。
孫楚は征西将軍の参軍となった後、梁の令に転じ、衛将軍司馬に遷った。
太康五年(二八四年)、武庫の井戸に龍があらわれた。
「瑞兆じゃ」
武帝はこれを観て喜び、群臣は賀辞を捧げた。
孫楚はそのようすを危ぶみ、上言した。
「龍は鱗を俯して重泉に潜んでいるかとおもえば、仰げば雲漢をこえて蒼昊(空)で遊ぶものです。
それが井戸でとぐろを巻いているのなら、蛙蝦と変わりありません。
井戸に龍があらわれたときいて、おもいあたることがございます。
陛下におかれましては、小過をお赦しになり、傅岩(商王高宗武丁の宰相であった傅説が隠れていた岩)や
渭浜(太公望が世を避けて釣り糸を垂れていたところ)で意望がかなうのを待っている賢才を挙用し、
学官を修め、才能ある者を昇進させ、善良で世人の手本にすべき独行の君子や、
難解なものを簡易にし、世俗を正すような抗言ができる卓越した才能の持ち主なら、
家柄や卑賤にかかわらず挙用するよう公卿に申命してくださいますようお願いいたします。
さすれば、戦に勝って攻め取る勢いは、春秋五伯や韓信、白起の威や功業を兼ねたようなものになりましょう。
礼楽を制定し、道を明らかにして、ようやく士人は力を発揮するのです。
陛下におかれましては、狂夫の言を採られませぬよう伏してお願い申したてまつります」
ちょうど劉毅の諫言もあり、武帝は賀辞を辞退した。

無二の知己

王 済

孫楚は同郡の王済(あざなは武子)と仲がよく、土地や人物のよさを批評しあった。
王済は魏の司空王昶を祖父に、討呉の司令官を務めた王渾を父にもち、文詞伎芸にすぐれ、
老荘を好み、当時貴族のあいだで流行した清談をよくする人物であった。
他人に頭を下げることのできない狷介な孫楚が、
おそらくひとまわり以上年下ではないかとおもわれるこの貴公子には敬服し、心をひらいた。
王済には歯に衣着せぬ発言を厭わない剛直なところがあり、そこが孫楚と通いあったのかもしれない。
――われを知ってくれるのは、王武子のみ。
孫楚にとっては、王済のみが畏友であった。
その王済が、并州の州大中正になった。
州大中正は州内の人物に評目をつけて推挙するのであるが、王済は、
「天才英博、亮抜不群」
と、孫楚を評した。
天才かつ博識で、卓越している、というのである。

漱 石

若いとき、なかなか仕官できなかった孫楚は、隠棲を望み、
「枕石漱流」(石に枕し、流れに漱がん)
と、話すつもりが、誤って、
「漱石枕流」(石に漱ぎ、流れに枕せん)
と、口にしてしまい、
「流れに枕したり、石に漱いだりなどできるもんか」
と、王済にからかわれた。すると、負けず嫌いの孫楚は、
「流れに枕するのは耳を洗うためじゃ。石に漱ぐのは、歯をみがくためじゃ」
と、強弁し、王済を感心させた。
流れで耳を洗うというのは、許由という隠者が、堯帝から天下を譲るといわれ、
「汚いことを聞いてしまった」
と、川で耳を洗ったという故事を踏まえたものであろう。
「漱石枕流」
あるいは
「漱石」
は、この話から生まれた語で、負け惜しみの強いこと、あるいはひどいこじつけをすることをいう。
また、孫楚がうまくいい逃れたことに感心したことから、
「流石」
という語がつくられた、という説もある。

虚 無

武帝が崩じ、恵帝が即位すると、孫楚は馮翊太守になった。
――隠遁したいなんていうとったくせに、えらい出世したやんけ。
などと悪態をついてくれる無二の親友を喪ったのは、このころであろう。
訃報に接し、孫楚の脳裡に王済との思い出がつぎつぎに浮かんでは消えた。
孫楚は妻を喪ったあと、詩を作って王済にみせたことがある。
「文から情がわくのか、情から文が生まれるのかわからないが、これを読むと悲しくなり、夫婦の情が深まる」
王済はそういって、孫楚の詩を賞賛した。
そんな唯一の理解者を喪ったという空虚なおもいを胸に葬儀に臨んだ孫楚は、
王済の柩にすがりつくように慟哭した。
そのようすに、もらいなきしない参列者はいなかった。
孫楚は哭礼を終えると、王済の亡骸にむかって、
「卿は、われが驢馬の鳴きまねをするのをいつもよろこんでいましたね」
と、話しかけ、驢馬の鳴きまねをした。
満座が、笑声に包まれた。
孫楚はふりむいて、
「この方が亡くなって、こんなやつらが生き残ろうとは」
と、吐き棄てるようにいった。
孫楚は語るに足る友ばかりか、生きる力までも失ってしまったようで、
元康三年(二九三年)、王済のあとを追うようにこの世を去った。

SHARE
シェアする
[addtoany]

ブログ一覧