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中国史人物伝

不屈の闘志で苦難を乗り越えた盲目の高僧 鑑真(唐)(2) 不惜身命

鑑真(1)はこちら>>

「不惜身命」

この四字熟語に耳おぼえがある人は、多いのではあるまいか。

平成6年(1994年)、大相撲で横綱に推挙された貴乃花関(二代目)が、

「今後も、不撓不屈の精神で、相撲道に不惜身命を貫く所存でございます」

と、昇進伝達式で口上を述べた。

初めて耳にした人が多かったのではないかとおもわれたこの語は、

仏教用語であり、1,200年以上前に、鑑真和上が、

「諸人ゆかずんば、われ即ちゆかんのみ」

と、日本へゆく決意を表明したことで有名なこの語の直前に口にしたのが、

この四字熟語であった。

ときに、御年55歳。

現在より短命であったとされる当時にあっては、相当な高齢であった。

貴乃花関は不惜身命の前に、不撓不屈も口にしていたが、

鑑真和上は、まさに不撓不屈の精神で苦難に立ちむかったのである。

中国史人物伝シリーズ

目次

邂 逅

懇 請

鑑真が日本僧栄叡と普照に面会したのは、天宝元年(七四二年)冬のことであった。
「仏法は東流し、日本国に至りました。ですが、仏法はあっても、それを伝えることができる人がおりません。
むかし、日本には聖徳太子という人がおりまして、二百年後に聖教が日本に興るであろう、といわれました。
いまがそのときにあたります。どうか、東遊されて教化していただける師をご紹介いただけませんでしょうか」
ふたりは、そう鑑真に訴えかけてきた。
かれらは、鑑真に日本にきてほしいとはいってない。
あくまでも、高弟の同行を願いでたのである。
五十五歳の高僧に生命がけの渡航を願いでるのは、無理な話である。
鑑真は、おもむろに口をひらいた。
「むかし、聞いたことがある。南岳の慧思禅師(南北朝時代の僧)がお亡くなりになられた後、
倭国の王子に生まれかわって仏法を興隆し、衆生をお救いなされたという話を。また、こうも聞いた。
日本の長屋王という者が、仏法を崇敬し、千の袈裟をつくり、唐の僧に寄進したとか。その袈裟の縁の上には、
山川の境域は違っていても、風月はおなじ天の下にあります。諸仏に寄せて、ともに来縁を結びましょう、
という四句が縫い著してあったことを。こうしてみると、たしかに日本は仏法が興隆する国じゃ」

華夷思想

「このなかに遠方からの願いに応えて日本へゆき、法を伝えるものはおらぬか」
鑑真は、いならぶ高弟たちにそう問いかけた。
だが、満座は静まりかえってしまった。
ややあってから、祥彦という僧が進みでて、
「かの国はたいそう遠く、生きてたどりつけるかどうかわかりません。
人としてこの世に生まれ出ることはたいへん難しく、中華に生まれることはもっと難しいのです。
しかも、われらはまだ修行中の身で、法を伝えるところまで達しておりません」
と、のべた。
これが、衆僧の偽らざるおもいであった。
古くから漢民族は自分たちがいるところこそが世界の中心であるとして、
「中原」
と、称し、周辺の異民族を文化程度が低いと蔑視していた。
東方の異民族は東夷とよばれ、日本は東夷の果てにあるとみなされていた。
当時の航行は風雨や天候など自然の環境に大きく左右され、生命の保証などなかった。
せっかくたれもが羨む超先進国に生を受けながら、
あえて危険を冒してまでしてこの世の果てともいうべき未開の地へ移ってしまえば、
渡航に成功できたとしても、二度と故国に帰ることはできないであろう。
そのような蛮行をするために仏門にはいり、修行に励んできたわけではない。

不惜身命

片腕ともたのむ高弟の発言をきき、鑑真は、
「これは仏法のためじゃ。なんで身命を惜しもう。たれもゆかぬというのなら、われがゆくまでじゃ」
と、きっぱりといった。
ここで鑑真は、
「不惜身命」
という語を発した。
仏道を修めるためには、おのれのからだや生命がどうなってもかまわない、という決意を表明したのであるが、
そのことば通り、わが身をかえりみず六たびにわたり危険な渡海を敢行したのであるから、
かれは情熱の人である。
鑑真は、日本に興味があったわけではない。
使命にかられた日本僧の熱意、そして必死さに心を打たれたのである。
その点において、鑑真は、理の人というより、情の人であった。
「師がいらっしゃるのでしたら、われもお供つかまつります」
鑑真の覚悟を知り、祥彦や思託ら十七人の高弟がつぎつぎに随行を申しでた。
かれらは、さっそく渡航の準備に取りかかった。

一回目

天宝二年(七四三年)四月、渡海の準備が進み、出航の日が近づいたころ、
「如海は素行不良で、修業が足らん。連れていかぬほうがよい」
と、道抗がいいだした。
不穏な雰囲気が濃くなっていくなか、
突如として道抗、栄叡、普照らをはじめ鑑真の弟子たちが一斉に役人に捕えられ、投獄されてしまった。
村八分にされた如海が道抗を恨み、
「道抗が海賊と通じ、城中に攻めこもうとしております」
と、役所に虚偽の密告をしたからである。
鑑真には何のとがめもなかったが、弟子たちがはやく釈放されるよう祈るしかなかった。
取り調べは、百日を超えた。
李湊のもとにあった李林甫の公文書により、道抗らの無実が立証され、八月に釈放された。
一方、如海は杖刑のうえ、朝鮮に追放された。
この事件は、同行者の心情に多大な影響を及ぼした。
「われは、もうゆかぬ」
もっとも渡日に積極的であったはずの道抗が釈放後にそういって離脱してしまうと、
ほかの弟子たちにもそれにつづく者が少なくなかった。
さらに、日本からの留学僧玄朗と玄法も、鑑真のもとから去ってしまった。
その結果、同行者が大きく減少してしまった。

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