劉備玄徳や諸葛亮孔明から信頼されて塩と鉄の専売を管理し、国庫を潤沢にした能吏 王連(三国 蜀)
しきりに軍旅をもよおしたが、その軍費はいったいどこから出たのであろうか。
秦以来、蜀は鉄や銅など資源が豊富で、塩を産出した。
そこに目をつけた劉備は、塩と鉄の専売による利益を得るべく
「司塩校尉」
なる官職を設け、
王連(あざなは文儀)
を、その任につけた。
王連は起用に応え、塩と鉄の専売から得られた利益を大幅に増やし、蜀の国庫をうるおした。
『三国志』で英雄たちが躍動した陰には、事務方の官僚が人知れぬ苦労をし、
地味ながらも”いぶし銀”というべき働きをみせていたのである。
中国史人物伝シリーズ
目次
司塩校尉
王連は南陽郡の出身で、劉璋が益州の牧(州の長官)であったときに蜀にはいり、梓潼の令となった。
建安十六年(二一一年)、劉璋は劉備を益州に迎えいれ、漢中の張魯を討伐させた。
ところが、翌年になると、劉備と劉璋が反目しあうようになった。
劉備は葭萌に到ると攻撃対象を漢中から益州に変え、兵を南へむけて、梓潼を攻めた。
王連は城門を閉じて劉備に降伏せず、劉璋への節義を貫いた。
劉備は王連の忠義に感じいり、無理に攻めようとしなかった。
建安十九年(二一四年)、劉備が劉璋を降して益州の牧になると、
王連は什邡の令に任じられ、さらに広都県長に転任させられた。
塩の産地であった両所で実績をあげたことで王連は評価を高め、
司塩校尉に擢用され、塩と鉄の専売を任された。
すると、王連は利益を大幅に増やし、蜀の国庫をうるおした。
さらに、王連は、呂乂、杜祺、劉幹ら良才ある者を選抜し、属官にした。
呂乂らは、のちに出世をはたすことになる。
その後、王連は蜀郡太守、興業將軍に遷任されたが、引き続き塩の専売を任された。
諫 止
建興元年(二二三年)、劉備が亡くなり、劉禅が皇帝に即位すると、王連は屯騎校尉に任じられ、
丞相長史(内閣府事務次官)を兼ねるとともに平陽亭侯に封じられた。
ときに、南方の諸郡が従わないため、みずから征討におもむこうとした丞相の諸葛亮に対し、王連は、
「あそこは不毛の地で、疫病が蔓延するようなところです。
一国の輿望をになわれておられるお方が危険を冒してまでゆくようなところではございません」
と、諫めた。
叛乱の鎮圧など、気の利いた将を差し向ければよいだけの話である。
ところが、諸葛亮は諸将の才器がおのれに及ばないと憂え、翻意しようとしなかった。
王連は諸葛亮が出征を口にするたびに諫止の言をあげ、何とかおもいとどまらせた。
そんなおりに、王連が亡くなり、諸葛亮は南征の兵を起こしたのであった。
王連の成果によって諸葛亮が遠征を敢行できたのであれば、皮肉であるとしかいいようがない。
評 価
旧主を尊び、志操が固く、心変わりしなかった。
劉備に仕えてからは、世の規範となるよう心を尽くし、財務を任されて信頼され、よく任務を遂行した。
以上が、『季漢輔臣賛』における王連の評価である。
『季漢輔臣賛』には、人物によっては過大な評価もみられるが、王連が能吏であったことには疑いなかろう。
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