納肝 腹を割いて君主の肝を入れた至忠の士 弘演(春秋 衛)
その最初は、平安時代であったらしい。
それを、2600年以上前の中国でおこなった人物がいたとされる。
弘演
春秋時代の衛人で、おのれの腹を切って内臓を出し、殺された君主の肝臓を入れた
とされるかれの名は、
『史記』や『春秋左氏伝』などの史書に登場せず、実在性に疑義はあるが、
その至忠は、多くの人びとの心を打った。
中国史人物伝シリーズ
目次
鶴公方
紀元前七世紀前半に東方の大国斉を治めた桓公は、
管仲を宰相に起用し、富国強兵に努め、紀元前六七九年に覇を唱えた。
その桓公が、公女を妻にほしいと衛に申し入れてきた。
しかし、衛は与えずに、許に嫁がせた。
衛の君主は懿公であったが、衛の吏民はかれに心服していなかった。
懿公の父(恵公)が、兄である太子伋の讒殺に関与し、取って代わったからである。
三十年以上前の事件であるが、懿公の代になっても衛人で太子伋に同情しないものはなかった。
懿公は、父の不徳を紹がされたことになる。
加えて、懿公は鶴を愛でた。
ただ好きなだけであれば、温和な人物ですんだかもしれない。
しかし、国君が人事権を行使すれば、どうなるか。
――鶴を好み、淫楽奢侈なり(『史記』衛康叔世家)。
と、評された懿公が、鶴に過重な愛情を注いでしまったあげく、軒(大夫の車)に鶴が乗るありさまとなった。そんな懿公に、
――ついてはゆけぬ。
と、人びとはすっかり心を離してしまった。
熒沢の戦い
紀元前六六〇年十二月、狄が衛に攻め込んできた。
「こしゃくな、返り討ちにしてくれん――」
懿公はそう息巻いて、国人たちに武器を配った。
だが、国人たちの士気は低く、
「君は鶴がお気に入りじゃ」
「鶴は大夫の禄位を受けているんだから、鶴を戦わせればいいじゃないか」
などと、不満をぶちまげた。
懿公はそんなことおかまいなしに、出陣を強行し、狄と熒沢で戦った。
懿公率いる衛軍は、兵力ではまさるものの、士気があがらず、終始敵に圧倒された。
大勢は決した。
「旗を、おさめましょう」
御者からそういわれたが、懿公はうなずかなかった。
そのため、帥将旗をめがけて敵兵が群がり、懿公は殺されてしまった。
納 肝
衛が狄に攻められたとき、弘演はちょうど使者となって国外に出ていた。
弘演が帰国すると、衛は大敗してしまっていた。
「君は――」
弘演は懿公が気がかりで、急いで熒沢へむかった。
懿公の屍は狄人に食べられ、ただ肝臓だけが無造作に打ち棄てられていた。
「君よ――」
弘演は懿公の肝臓に復命し、天を仰いで啼いた。
涙が涸れると、弘演は、
「どうかこの中にお入りください」
と、いうや、みずからの腹を割き、懿公の肝臓を体内に収めた。
忠の手本
弘演は『史記』や『春秋左氏伝』などの史書には出てこない人物でありながら、
その至忠は後世の人びとの心を打ち、
中国歴代皇帝のなかでも名君中の名君とされる唐の太宗(李世民)もその忠義を称嘆した
という話が『貞観政要』にある。
日本では、日蓮が、
――公胤(弘演)といひし人は腹をさいて主君の肝を入る。(『開目抄』)
と、記し、弘演は賢人で、忠の手本と評している。
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