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中国史人物伝

愛深きゆえに⁉ 鄭の荘公の母 武姜(春秋 鄭)末子を偏愛し、長子を憎しみ抜いた先に何があったのか?

女は感情の生き物、といわれる。

「独眼竜」の異名をもつ戦国武将 伊達政宗は、

弟を溺愛した母に毒殺されかけたという話がある。

その真偽はともかく、なにゆえ母親が自分の腹を痛めて産んだ子を嫌うのか。

ひとつには、何らかの心の傷(トラウマ)を負い、その子をみれば、

つらい記憶がよみがえってしまう、ということが考えられる。

母が弟を偏愛し、嫡子を嫌ったという話は、わが国だけでも数多あるが、

古代中国にも少なくない。

春秋時代初めの名君である鄭の荘公も、生母である武姜に愛されなかった。

その端緒は、荘公の出生時にあった。

中国史人物伝シリーズ

目次

鄭のあけぼの

春秋時代は、覇者の時代、ともいわれる。
覇者といえば、斉の桓公や晋の文公ら春秋五覇が有名であるが、
春秋時代にはじめてあらわれた覇者といえば、鄭の荘公ではなかろうか。
鄭は、紀元前八〇六年に周の宣王の弟である友(鄭の桓公)が封じられたことにはじまる。
宣王の子である幽王は、笑わない美女として有名な褒姒を寵愛し、
褒姒の歓心を買おうと太子宜臼を廃し、褒姒の子を太子に立てた。
そんな幽王に、諸侯はすっかり心を離し、都の鎬京(宗周)が異民族に攻められたとき、
鄭の桓公以外に救援した諸侯はなかった。
周の敗北を予見した桓公は、鄭の人民をあらかじめ諸国に預けた。
桓公は、奮戦むなしく戦死し、幽王も殺された。
その後、もとの太子宜臼が外祖父の申侯らに擁立されて王となり(平王)、東の洛邑(成周)へ遷った。
桓公を継いだ武公は、平王を輔け、周王室を安定させた。
すると、鄭の人民は諸国から武公のもとに集まってきた。
かれらを求合し、新鄭を都にした武公の夫人が、武姜である。

申侯の思惑

武姜は、申の公女であった。
申は周の平王の生母申后の生国で、当時の有力諸侯でもあった。
諸侯の夫人は、夫の諡(おくりな)と生国の姓の組合せでよばれる。
武姜の場合、武は夫武公の諡、姜は申公室の姓である。
姜姓の国は嶽神伯夷の後裔とされ、なかでも有力な斉、申、許、甫は、姜姓四国とよばれる。
諸侯の公女は、異姓の国の国君ないし公子に嫁入する。
武姜は、武公十年(紀元前七六一年)に、鄭の武公の夫人となった。
鄭公室は周王室に近い親戚であり、武公は周王室の卿士(首相)として重んじられている。
この婚姻には、周王室と鄭の関係を深めようとする申侯の思惑があったろう。

窹 生

武姜は、嫁入した四年後に懐妊した。
男児であれば、嫡子となる。
武姜が、武公が、国じゅうが、その誕生を待ち望んだ。
しかし、なかなか産まれ出てこなかった。
子を産むというのは、かくも苦しいものなのか――。
――はやく楽になりたい。
武姜は、幾度そうおもったろうか。
かなりの難産の末に、産道の出口にあらわれたのは、なんと足であった。
帝王切開という技術がない当時において、足からさきに生まれる逆子は、最も難産とされた。
窹生
これが、生まれ出た子につけられた名である。
変わった名であるが、逆子のことである。
窹生をみると、武姜は分娩時の苦しみを憶いだしてしまい、愛情を注ぐことができなかった。
その三年後、武姜はふたたび身ごもった。
――また苦しまなければならないのか。
という武姜の不安は、杞憂に終わった。
つぎの子は、すんなりと生まれ出てくれた。
段と名づけられたこの子を、武姜は抱きしめた。
――この子になら、素直に愛せることができる。
以後、武姜の愛情は段のみに注がれ、窹生は憎悪の対象でしかなくなった。
「段を太子にしてもらえませんか」
武姜は、幾度となく武公にそう訴えかけた。
しかし、武公は首を縦にふらなかった。

京城大叔

武公二十七年(紀元前七四四年)、武公が病に罹った。
「段を太子にしてもらえませんか」
武姜はここでもそう懇願したが、聴き容れられないまま武公は亡くなった。
太子であった窹生が国君に即位した。これが荘公である。
さっそく、武姜は、
「段どのに、制を与えてたもれ」
と、なかば命ずるような口ぶりで荘公に頼んだ。
「制は、厳邑(要害の地)なれば」
と、荘公は断わる一方、
「他の邑なら、かまいませんよ」
ともいった。すかさず、武姜は、
「では、京を――」
と、所望した。
京は、制の東に位置する邑である。
のちに京は滎陽、制は成皋とよばれ、これらを舞台に
項羽と劉邦が幾度となく戦火を交えたことで人口に膾炙したが、
その五百年以上前においても、やはり要地であった。
ちなみに、『春秋左氏伝』の中で、制の別名として虎牢という地名がみられる。
こちらは、『三国志』でもなじみの地名であろう。
こうして京という大邑を領することになった段は、荘公のいる新鄭に比肩するほどの広大な都城を築き、
「京城大叔」
と、よばれた。
叔は、弟のことで、大をつけてその威勢を示したのであろう。

偏愛の末に

二十年が経った。
母の愛情をかさに増長した段は、
荘公からまったく咎められないことをよいことにまるで諸侯気どりにふるまい、
勝手に領地を拡げていった。
荘公二十二年(紀元前七二二年)夏に、
――都を襲おうとおもいます。
と、段から知らされると、武姜は喜び、
「ならば、わらわが手引きしてさしあげよう」
と、応じた。
憎い荘公を追い出して、愛する段を鄭の国君にする。
この日がくるのを、どれだけ待ちわびたことか。
あとは、段が大軍を率いて新鄭にくるのを待つだけであった。
しかし、五月になっても段はあらわれなかった。かわりに、
「段さまが、君に伐たれました」
という報せに接した。
荘公が機先を制して段がいる京を急襲したのである。
段は鄢に逃れたものの、そこでも荘公に敗れ、共国へ出奔してしまった。
段はもちろん、武姜も荘公を甘くみていたというしかない。
「だっ、段がいない……」
武姜は、すっかりしおたれてしまった。

幽 閉

武姜は段の謀反を誘発したかどで、城潁に移されて、幽閉された。
「死ぬまで会わない」
荘公は、そう宣言しているらしい。
――なにゆえこうなってしまったのか。
考えるまでもない。かの女が弟の段だけを偏愛し、兄の荘公を嫌ったからである。
そこに想到すると、武姜は自分が恥ずかしくなり、
――君におわびしたい。
というおもいが、かの女のなかで日ごとに募っていった。
そんなある日のこと、武姜のもとに荘公の使いがあらわれ、
「お出ましください」
と、いわれ、車に乗せられた。
――殺されるのか。
車中で、武姜は不安に苛まれた。
だが、苦労して産んだわが子の手にかかって死ぬのである。
せめてもの罪滅ぼしになるのであれば、それもよいではないか。
武姜は、そう思い直した。
それだけのことをしたのであるから仕方あるまい。

大 隧

車からおろされて、隧道(トンネル)のなかに誘われた。
――君も、母を殺すのにうしろめたさがあるんじゃろう。
武姜は、自嘲した。
そのときである。
「大隧のなか、その楽しみや融融(心がなごむ)」
と歌う声が聞こえた。
声の主がたれか、わからないわけがあろうか。
「君よ――」
武姜は、荘公のほうへ歩み寄った。
「母上――」
荘公も、走りよってきた。
ふたりは手を取り、抱きあって再会を喜んだ。
――まさか、またお会いすることがかなおうとは。
そう感慨にふけりながら、武姜は、
「許してくださるのですか」
と、訊いた。
「許すも何も、われは母上をお怨み申したことなどございませぬ」
――なんて、やさしいお方なんでしょう。
武姜は、それまでとはまったくちがう慈愛にあふれた表情を荘公にむけた。
面晤した時間は、どれほどであったか。
武姜には、とても短く感じられた。
武姜は、終わってから外へでると、
「大隧の外、その楽しみや泄泄(あふれでる)」
と、歌った。
以後、母子は心を通わすようになった。

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