斉の桓公に信頼され、管仲を達した賢人 鮑叔牙(春秋 斉)(1) 管鮑の交わり
――倉廩実ちて則ち礼節を知り、衣食足りて則ち栄辱を知る。
という『管子』(牧民)の一節を思い出さざるを得ない。
社会の秩序は、生活が豊かになってこそ保たれるのである。
『管子』は、春秋時代の名宰相と謳われた管仲に仮託してつくられた思想書である。
管仲は、斉の桓公を覇者にした元勲であるが、
桓公に仕える前に、なんと、桓公を射殺しようとしたことがある。
いわば讎ともいうべき男を、股肱の臣に据えつづけた桓公の度量の大きさには驚嘆されられる。
管仲を桓公に推挙したのは、傅(守り役)の鮑叔牙*であった。
鮑叔牙は若いころから管仲と親交し、管仲の賢明さを知っていた。
管仲がいくら賢明であっても、鮑叔牙の推挙がなければ、桓公は登用しなかったであろう。
覇者の桓公にして、この人が口をきけば、おのれの生命を狙った讎でさえも鼎位に据えてしまう
ほど信頼された鮑叔牙とは、どのような人物であったのか。
*:鮑叔牙は、諱は牙、あざなが叔であるから、鮑牙あるいは鮑叔と称すのが適当であろうが、
ここでは鮑叔牙で通す。
中国史人物伝シリーズ
目次
杞 憂
周の武王は、商(殷)を滅ぼした後、夏の禹王の子孫を杞に封じた。
ゆえに、杞は姒姓の国であり、
――杞は小にして微なり。其の事は称述するに足らず。
と、『史記』(陳杞世家)に記されるほどの小国であるが、
ある話のおかげで、現在でもなおその存在を知られている。
それは、『列子』にある、
杞の国に、
「天が落ち、地が崩れはしないか」
と、心配するあまり、夜も眠れず、食物もとれなかった人がいた。
という話である。
この話から、無用の心配や取り越し苦労をすることを、
杞憂
と、いうようになった。
杞は祖先である夏の礼を保存していたため、時代遅れの風習を有する印象が強かった。
それゆえ、このような話がつくられたのであろう。
杞国の公子で、斉に仕え、鮑の地を賜った人がいた。
食邑から鮑氏と名告ったこの人物こそが、鮑叔牙の祖先であった。
管鮑の交わり
鮑叔牙は斉の大夫鮑敬叔の子で、若い頃、いつも管仲(名は夷吾)と親しく交わった。
鮑叔牙は管仲に誘われて、ともに商売をした。
利益を配分する際に、管仲は公平にせず、おのれの取り分を多くした。
しかし、鮑叔牙は、
「管仲は貧窮しているんじゃ」
と、いい、不満をいだかなかった。
また、鮑叔牙は、管仲が大きな損失をしても、
「商売には、時勢があるものだ」
と、いい、決して責めなかった。
逆に、多大な利益をあげたときは、そのほとんどを管仲に与えた。
管仲は鮑叔牙と企画を立て、実行に移したことがあったが、失敗し、余計に困窮してしまった。
しかし、鮑叔牙は、
「時には、利と不利があるものだ」
と、いい、管仲を愚かだとしなかった。
このように、鮑叔牙はいつも管仲に騙されたが、それでも管仲を厚遇し、騙されても不満をたれなかった。
管仲の賢明さを知っていたからである。
管仲は鮑叔牙の厚情に恩を感じ、
「われを生んだのは父母じゃが、われを知る者は鮑叔じゃ」
と、嘆息していった。
二人の厚い友情を、後世の人は、
「管鮑の交わり」
と、呼び、大いに称えた。
守り役
周が洛陽に東遷したときの斉の君主は、荘公である。
荘公の後を継いだ僖公には、
諸児
糾 (母は魯の公女)
小白(母は衛の公女)
の三人の公子がいた。
鮑叔牙は小白の傅(守り役)になり、管仲は糾の傅になった。
小白の母は、僖公に寵愛されていた。
小白は人あたりがよく、若いころから高傒と仲がよかった。
高氏は、国氏とともに卿(大臣)を輩出する家柄であった。
そのあたりが、鮑叔牙が小白に仕えた契機になったかもしれない。
鮑叔牙はすぐに小白と打ち解け、信頼されるようになった。
小白は茫洋とした人物であり、気宇の巨きさすら感じられた。
――公子が末子であるのは、斉にとってどうなのであろうか。
鮑叔牙は、小白のためにその将来を危ぶんだ。
亡 命
僖公が亡くなり、諸児があとを継いだ。これが、襄公である。
襄公はひと言でいえば暴君で、むやみに人を殺し、女色にふけり、しばしば大臣を欺いた。
――このままは、禍が小白さまの身に及ぼう。
不安にさいなまれた鮑叔牙が、
「君は好き勝手して、人遣いが荒いです。いずれ乱が起きましょう」
と、告げると、小白は、
「衛へゆきたい」
と、いった。衛は小白の母の生国であるから、当然の発言である。
しかし、衛は政情が不安定であり、身を寄せる状況ではない。
それゆえ、鮑叔牙は首を横にふり、
「莒へまいりましょう」
と、いった。
「莒……」
小白は、力なくつぶやいた。
莒は、斉の都臨淄から南東三六〇里(約一四六キロメートル)ほどのところにある国である。
「莒は小さく、斉からも近い国です。小さければ侮られず、近ければすぐに帰れます」
鮑叔牙がそう諭すと、
「わかった」
と、小白はものわかりのよさをみせ、莒へ亡命した。
紀元前六八六年のことである。
亡命生活
莒での亡命生活は、つらいものであったらしい。
小白らは莒で冷遇されたわけではない。かといって、厚遇されたわけでもない。
要するに、当たらず触らずで傍観を決めこまれたのである。
これは、帰国時に莒の援助が得られないことを意味する。
もとより、それはわかって亡命してきたのであるが、ここまで冷淡にされるとつらくなる。
そのようななか、高傒からの使者が小白を訪れた。
「急ぎお戻りくだされ」
小白と鮑叔牙は、目をみあわせた。
相続争い
小白が去ってから一年も経っていないというのに、斉は乱れに乱れていた。
紀元前六八六年十一月、襄公がいとこの公孫無知に殺された。
それから数か月もしないうちに、君主になったばかりの無知が殺された。
斉に、君主がいなくなった。
君主の座に近いのは、襄公の弟の糺と小白である。
このとき、糾も小白も斉にいない。
糾は、生母の生国である魯に逃げていた。
先に斉に帰った方が君主の席に座れよう。
「まいりましょう」
鮑叔牙は小白を奉じて莒を発ったが、はやる気持ちを抑え、慎重に進んだ。
――敵は、管仲じゃ。
管仲のことであるから、もしかすると、小白の行く手を阻んでくるかもしれない。
そうおもえば、臨緇に着くまで気が気でない。
「偵察にまいります」
そういって小白から離れた鮑叔牙が、小白に復命しにもどると、
「管夷吾(管仲)に、射られてもうたわ」
という笑声に迎えられた。
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