史上初 函谷関を突破した 周文(周章)(戦国 秦 楚)
関中は、山河の険に守られた天然の要害であった。
特に、函谷関は東方諸国の軍の侵入を阻み、孟嘗君や信陵君など
名だたる英雄でさえも突破することができなかった。
逆に、富国強兵を果たした秦は東方へ版図を拡大して諸国を降し、天下を統一した。
天下の主となった始皇帝は、様々な統一政策を実施して、秦帝国が永遠に続くことを願った。
ところが、始皇帝の死後、陳勝・呉広らが叛乱を勃こすと、天下の状況は様変わりした。
陳勝は王になると、一軍を派遣して秦を攻めさせた。
なんと、この軍は難攻不落の函谷関を突破して秦帝国を脅かした。
この軍を率いた周文(周章)とは、どのような人物であったろうか。
中国史人物伝シリーズ
目次
春申君
周文(周章)は陳の出身で、楚の宰相の春申君に仕えた。
陳は、紀元前二七八年に楚の首都になった。
十五年後に楚王となった考烈王は、自身の擁立に功のあった黄歇を令尹(首相)に任じた。
以後、春申君と号した黄歇は士を好み、食客を三千人も養ったという。
そのなかに、荀子(荀況)もいたらしい。
秦は版図を拡大し、斉以外の五国と接するまでになった。
――これ以上秦に圧迫されるのは、まずい。
そう危惧した春申君は、紀元前二四一年、五国連合軍を率いて秦を攻めた。
しかし、五国の軍のまとまりは悪く、要害の函谷関を抜くことができずに敗退した。
立場を悪くした春申君は、考烈王に寿春への遷都を進言した。
以後、考烈王の信頼が薄らぎ、焦りをおぼえた春申君は、食客の李園の策謀に乗り、
子のいない考烈王に寵妾を献じた。
かの女は李園の妹で、春申君の子を身ごもっていた。
かの女が男児を生むと、何も知らない考烈王は喜び、その子を太子に立てた。
紀元前二三八年に考烈王が亡くなり、太子が王になった。
ところが、春申君が、事の発覚を恐れた李園が放った刺客に刺殺されてしまった。
項燕の視日
主を喪った周文は、寿春から逃げた。
春申君に仕えていたかれは、陳の賢人と評されるようになった。
十余年後、周文は楚の大将軍である項燕の部下になった。
項燕の軍中において、かれは視日(日時の吉凶を占う官)となった。
紀元前二二五年、項燕は楚に攻め込んできた秦の二十万の大軍を破り、名将と仰がれた。
しかし、安堵したのもつかの間であった。
つぎの年、王翦率いる秦の六十万の大軍と戦って大敗し、楚王が捕らえられ、楚は滅亡した。
周文は、ふたたび逃亡者になった。
征西将軍
「扶蘇と項燕が蜂起した」
紀元前二〇九年の秋、周文はそのようなうわさを耳にした。
項燕将軍が生きていた――。
そう聞いて居ても立っても居られなくなった周文は、項燕のもとに駆けつけようとした。
叛乱軍は急速に膨れ上がり、周文が駆けつけたときには、すでに陳を陥としていた。
叛乱軍の首領は、扶蘇でも項燕でもなく、陳勝といった。
――上層部に毛並みのよい者は寡ないであろう。
周文はそう推断し、
「われは、兵事に通じている」
と、自身を売り込み、王になった陳勝に謁見を願い出た。
「春申君に仕え、項燕将軍の軍中におられたとか」
周文を引見した陳勝は、そう声をかけて、その経歴を喜んだ。
――やはり、陳王の左右には智恵者がおらぬようだ。
好感触を得たと感じた周文は、陳勝に自説を披歴し、
「いま、関中に兵をむければ、天下は大王の掌中にはいります」
と、たたみかけた。
「よしっ、あなたに秦を伐ってもらおう」
陳勝は周文に将軍の印を授け、わずかな兵を与えて秦を攻撃させた。
函谷関突破
「暴秦から天下を救う」
周文は道すがらそう唱え、兵を併せ収めながらまっすぐに函谷関へ至った。
寡兵であったはずのかれの兵力は、このとき兵車千乗・士卒数十万にまで膨れ上がっていた。
この兵力で、周文は難攻不落の要害であった函谷関を突破した。
これは、偉業であろう。
兵を率いた経験がない将が、かつての主君の春申君を含め、
いままでたれも成し得なかったことをやってのけたのである。
周文は名将である、と断じてよかろう。
戯の戦い
帝昏愚
紀元前二〇九年九月、周文は戯まで進軍し、陣を布いた。
戯から秦の首都である咸陽までは、わずか四十里(約十六キロメートル)しかない。
――いよいよだな。
周文は、眼下を流れる戯水を眺めながら、昂奮を隠し切れずにいた。
咸陽にいる二世皇帝は、頑固なまでに謀叛を信じなかった。
「東方で謀叛が勃こっております」
そう報告しようものなら、二世皇帝の機嫌を損ね、即座に首と胴が離れてしまう。
それゆえ、近臣は二世皇帝に阿り、
「きゃつらは、群盗にすぎません。郡守や郡尉が追跡し、捕らえておりますゆえ、いまに失せましょう。
案ずるに及びません」
と、悦ばせていた。
そんなありさまであったから、叛乱軍への備えなどあろうはずがない。
しかし、咸陽からほどない戯に大軍があらわれたとあっては、現実に目をそむけるわけにはいかない。
文と章
対岸が、黒一色に染まった。
秦軍である。
その軍容を目の当たりにして、
――関中には、まだこれだけの兵がいたのか。
と、周文はおもわず目を疑った。
かれが仄聞したところによれば、秦の正規軍は北のかた上郡で匈奴に備えており、
関中は空同然のはずであった。
ところが、眼前にあらわれた兵は、数十万はいよう。
旗指物に書かれた秦将の氏は、章というらしい。
「わが名とおなじじゃ」
苦笑した周文は、太鼓をたたいた。
戯水の両岸から天を揺らし、地を轟かさんばかりの喊声があがった。
両軍の兵士が、戈矛をあわせた。
秦将の章邯は兵数を二十万と号したが、これは周文の軍の兵数と同程度であろう。
たしかに、章邯率いる兵は、秦の精鋭ではなかった。
かれらはもと囚人であり、戦功を挙げれば赦免されるといわれて、武器を手にしたのである。
急造兵となった罪人たちの欲望と必死さが、周文の兵たちのそれを上回った。
周文の軍は敗走し、函谷関を脱出した。
夢のあと
周文は、大敗して一目散に国もとへ逃げなかった。
函谷関を出てすぐの曹陽で踏みとどまり、立て直しを図ったのである。
かれは曹陽で二か月以上章邯軍を食い止めたものの、ふたたび敗走し、
七十里(約二十八キロメートル)西にある澠池に踏みとどまった。
ここでも周文は章邯軍と十日以上戦ったが、またしても大敗し、自刎した。
陳勝が第二陣を繰り出して周文を後援すれば、天下の形勢は違ったであろう。
しかし、陳勝は陳にとどまり、足もとを固めることに腐心してしまった。
もしかすると、陳勝は追加派兵できる余力がないと判断したのかもしれない。
周文に三戦三勝し、名将として驍名を馳せることになった章邯は、陳を攻め、陳勝を敗走させた。
王になれただけにとどまった陳勝は、鴻鵠になり損なった。
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