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中国史人物伝

孫呉三代の仇敵 短気な老将 黄祖(後漢)(2) 死闘の果て

黄祖(1)はこちら>>

荊州刺史(長官)の劉表から江夏太守に任じられた黄祖は、

要地である夏口(漢口)に駐屯し、東のかた呉へ備えた。

孫堅を戦死させたことで、孫堅の子らに讎として付け狙われた黄祖は、

幾度となく襲いかかる呉軍の猛攻を防ぎ切れるであろうか。

中国史人物伝シリーズ

目次

弔い合戦

「孫策が攻めてきます」
という報せを受けた。建安四年(一九九年)のことである。
孫策は孫堅の子で、父の怨みを晴らそうとしたのである。
「ちょこざいな。返り討ちにしてやる」
黄祖は、沙羡に邀撃の陣を布いた。
劉表は従子の劉虎と南陽の韓晞に五千の兵を属けて黄祖のもとへ遣り、先鋒とした。
その最中に、廬江太守の劉勲が援軍を要請してきた。
黄祖はこれに応じ、子の黄射に水軍五千を与えて劉勲を救援させた。
しかし、孫策に打ち破られ、逃げ帰ってきた。
劉勲の兵を得た孫策が、勢いに乗って夏口まで進軍した。
「来たな、こわっぱめ」
黄祖は劉虎と韓晞が率いる先鋒に孫策と戦わせたが、散々に打ち破られた。
この戦いについて、孫策は、
「わが軍は、韓晞以下二万人余りの首級を斬りました。水に飛び込んで溺れた敵兵は一万人余り、
戦利品は船六千艘余りと山積みの財物でございます。劉表はまだ捕らえておりませんが、
黄祖が長らく狡猾な真似をしており、劉表の腹心として爪牙となっており、
劉表が勢力を伸ばしたのは黄祖の息吹によるものでした」
と、上表した。
多少の誇張はあろうとおもわれるが、黄祖軍の被害が大きかったことがうかがえる。
翌年、孫策が暗殺され、弟の孫権が家督を継いだ。

最 期

「孫権が攻めてきます」
という報せを受けた。建安八年(二〇三年)のことである。
「孫策が死んでおとなしくなったとおもうておったが、侵略の虫がおさまらぬのは、血のせいか」
老いても血気盛んな黄祖は邀撃したものの、敗れて逃げだした。
食客の甘寧が殿軍をつとめ、追撃してきた呉将の凌操を射殺した。
甘寧の活躍もあって黄祖はようやく難を逃れ、軍をまとめて本陣に戻ることができた。
それなのにかれは戦後甘寧を重用しなかったので、呉へ去られてしまった。
孫権は建安十二年(二〇七年)にも攻めてきたが、黄祖は撃退した。
しかし、それで報復をあきらめる孫権ではない。
建安十三年(二〇八年)春、孫権がふたたび攻めてきた。
黄祖は、二隻の蒙衝を横にならべて沔口(夏口)を守ろうとした。
栟閭(しゅろ)の大紲(太いロープ)に石を結んで碇として舟を固定し、船上にいる千人の兵が弩を乱射し、
矢を雨のように降らせ、敵の進軍を食い止めようとした。
しかし、先鋒が呂蒙に破られ、董襲に蒙衝の腹の下にもぐりこまれ、刀で碇の紲(ロープ)を切られた。
蒙衝は勝手に流れ出てしまい、それに乗じて呉軍が大挙して攻め込んできた。
――もはや、これまでか。
黄祖はあわてて城門を開いて逃げだしたが、敵兵に追撃されてしまい、騎士の馮則に斬られてしまった。
孫堅を射殺した黄祖の部下の名は伝わらないのに、黄祖を斬殺した馮則の名が遺るのは、
呉の体面にかかわるからであろうか。

荊州の黄氏

劉表は襄陽にいて北方(中原)への備えをする一方、黄祖を江夏太守に任じ、東方(呉)へ備えさせた。
劉表が陸軍を、黄祖が水軍を統率していたのであろう。
要地を守った黄祖の役割は非常に重要であり、荊州におけるかれの地位はかなり高かったと推察される。
加えて、黄祖の長子の黄射も、劉表から章陵太守に任じられている。
劉表が荊州の八郡のうち二郡の太守をこの父子に任せていることを想えば、
黄氏は地元の名家であったろう。

性急な老将

黄祖といえば、短気な老将という印象をいだく人が少なくないのではなかろうか。
史書に黄祖が性急であると記されているのが、その根拠であろう。
黄祖の食客であった甘寧は、
「黄祖はすでに年を取り、耄碌がひどく、金も食糧も乏しくなり、ひたすら金もうけに走り、
役人や兵士たちから搾取しています。そのため、役人や兵士たちは不満を募らせ、
舟も兵器も壊れたまま修理されず、農耕に励む者もなく、軍法は守られず、兵士たちはばらばらです」
と、いって、孫権に黄祖討伐を勧めた。
多少の誇張はあろうが、黄祖の配下であった者の発言であるから、
まったく内実から外れた表現というわけではないであろう。
それでも、江夏という要地を十六年以上守り抜いた黄祖の手腕は、もっと評価されてよいのではなかろうか。

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