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中国史人物伝

弾冠 民を恤え制度改革を訴えた儒家官僚 貢禹(前漢)

儒教は、前漢の武帝の時に国教となった。

学校でそう習った方は寡なくないのではなかろうか。

建元五年(紀元前一三六年)に、武帝が五経博士を置いた。

これにより、儒教が国教化されたとされる。

以後、儒学者が抬頭して儒家官僚が進出し、公孫弘が儒者で初の丞相(首相)に起用された。

しかし、最近では儒教が国教化されたのは武帝の時ではなく、

前漢末から後漢にかけてであるともいわれる。

武帝の玄孫である元帝は、儒教にかぶれていたことで知られている。

太子であったとき、父の宣帝に儒者の登用を進言したものの容れられなかったかれは、

皇帝に即位すると、儒家官僚を登用し、儒教的政策を推進していった。

その代表が、
貢禹(あざなは少翁)(?-前44)
であった。

八十歳前にようやく日の目をみた晩成の才器は、元帝に重用されて、最晩年に輔相に昇った。

かれは迫りくる寿命と競うように種々の制度の改変を矢継ぎ早に進言したが、

いずれも人民の困苦を恤え、天下の太平を願ってのものであった。

中国史人物伝シリーズ

公孫弘を論破した大器晩成の代表 朱買臣

目次

忍 従

貢禹は琅邪郡出身で、経書に通じ、廉潔で知られた。
徴召されて博士となり、涼州刺史(監察官)になったが、罹病して辞任した。
その後また賢良に推挙され、河南郡の県令となった。
そこで一年以上務めたが、職務上のことで太守府の役人に問責され、冠を脱いで謝罪した。
「ひとたび脱いだ冠を、どうしてふたたびかぶれよう」
貢禹はそういって、官職を去った。

弾 冠

貢禹は同郡の王吉(あざなは子陽)と友人であり、
――王陽在位、貢公弾冠。
と、世人に称された。
――王陽(王吉)が官位にあれば、貢公(禹)も仕官する。
というのである。
垂名の人のまわりから有為の人材があらわれる。
これは、中国に特有の現象なのであろうか。
王吉は、昭帝のときに昌邑国の中尉(県警本部長)となり、昌邑王劉賀をよく諫め匡していたが、
宣帝にはあまり重用されず、病と称して故郷に帰っていた。
元帝が即位すると、貢禹と王吉に徴召の使者を発した。
ふたりともすでに年老いていたものの、徴召に応じ、都へ出立した。
老体に長旅は耐えられなかったのであろうか、王吉は都へ着く前に病死してしまった。

節倹を説く

初元元年(紀元前四八年)、諫大夫に任じられた貢禹は、元帝から政事について諮問された。
折しも天下は不作で、郡国の多くが困苦していた。
「古えは天子は質素に暮らし、後宮の妃妾は九人にすぎず、
苑囿(天子の狩場とする庭園)は数十方里にすぎず、民とこれを共用しました」
貢禹は古昔の聖天子の先例にかこつけてそう言上し、皇帝の衣食住の経費や後宮の宮女の削減、
皇帝の私有地の貧民への解放などを進言した。
元帝はそれを容れ、飼育する馬の数を減らし、宜春にある下苑(皇帝の私有地)を貧民に与え、
角抵(相撲)などの遊戯を廃止し、貢禹を光禄大夫(議論をつかさどる官)に任じた。

骸骨を乞う

貢禹は光禄大夫になってからしばらくすると、上書して、
「臣は犬馬の齢八十一になり、素餐尸禄、朝廷を汚す臣でございます。
願わくは骸骨を乞い、郷里を帰らせていただきとう存じます」
と、願い出た。
高齢による衰えもさることながら、かれの気がかりは、まだ十二歳であった子にあった。
しかし、元帝は、
「古伝(『論語』里仁)に、土を懐うことのないように、とあるではないか」
と、慰留し、一か月以上経つと、貢禹を長信少府(皇太后宮のことをつかさどる長官)に任じた。

槐 位

上 書

初元五年(紀元前四四年)、御史大夫(副首相)であった陳万年が亡くなり、貢禹が後任となった。
人臣に仰ぎみられるような高位に昇っても、八十歳を超えた貢禹にはまったく浮かれる色がなかった。
貢禹は、残された精力のかぎりをふりしぼり、
――最後のご奉公じゃ。
とばかりに、
「三歳になると口銭(人頭税)を徴収されてしまうため、民は子を産むとすぐに殺してしまいます。
これは、悲痛の限りでございます。児が七歳で歯が生え変わってから口銭を納めさせるよう改めるべきです」
「離宮の衛兵を減らし、遊戯のために税で養っている奴婢を免じるのがよろしいと存じます」
などの上書を、数十回にもわたっておこなった。

貨幣廃止

貢禹がした提言でもっとも大胆であったのは、貨幣廃止であろう。
「民は本業である農業を棄てて末業である商賈の利を求めるのは、銭があるからです。
貨幣を廃止し、租税や俸禄賞賜は布帛と穀物を用い、百姓を農に帰させるのがよろしいと存じます」
また、かれは、皇帝の近臣が副業として物を売るのを禁じよう、とも考えた。
これは精力分散避止が目的なのではなく、貨幣廃止を進めるための一環であろう。
――金銭がなくなれば、農業が復興する。
貢禹にかぎらず、当時の儒者たちは、真剣にそう信じていたらしい。
貢禹はまた、
「いま至治の世を興し、太平を致そうとなさるのでしたら、贖罪の法を廃止すべきです」
とも訴えた。

理想と現実

「陛下がおのれを正して下民に率先し、賢人を選んでみずから輔け、忠正な臣を登用し、姦臣を誅し、
諂佞の者を追放し、園陵の侍女どもを放出し、俳優や楽人らをやめ、淫らな音楽を絶ち、節倹の教化を修め、
天下の民を帰農させて怠りませぬよう意を留め、ご省察くださいますよう」
貢禹は、上書をそう結んだ。
元帝は貢禹の質朴で正直な意見に打たれ、対応を丞相の于定国に諮った。
その結果、口銭を七歳から徴収するように改め、離宮の衛兵を減らした。
しかし、貨幣廃止には踏み切れなかった。
さすがにこれはあまりにも現実離れしている、と判断されたのであろう。

廟制改革

貢禹は郡国廟の廃止や、廟制の改革についても上奏したが、施行はされなかった。
貢禹は御史大夫となって数か月で亡くなった。
元帝は銭百万を下賜し、貢禹の子を郎に取り立てた。
――先生は、生命を懸けて意見してくれたんじゃ。
元帝は貢禹の議論を追憶し、貢禹の死後四年が経った永光四年(紀元前四〇年)に廟制改革をおこない、
郡国廟の廃止を実行した。

儒教国教化

元帝の治世に、儒者が政策の主導権を握るようになり、政治に混乱がみられた。
やがて重臣の多くが儒者になり、儒者が丞相に任じられるようになった。
孝を重んじた儒学への偏重は、外戚の専横を許すことになり、
元帝の皇后の実家であった王氏から王莽があらわれ、漢王朝が簒奪されてしまう。
王莽が建てた新王朝の時に、儒教が国教化されたという説がある。
前漢末、儒者が現実を顧みずに尚古に奔った結果、制度の改変が繁くなった。
その傾向は新代により煩瑣となり、吏民を混乱させることになる。
この現象に、
――国がまさに亡びんとすれば、必ず制多し(『春秋左氏伝』)。
という、春秋時代の晋の大夫であった叔向が五百年以上前におこなった指摘を懐わざるを得ない。
歴史は、繰り返すものなのであろうか。

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