報い 申包胥(春秋 楚)衷心は天をも動かす
儒教で是認される「報い」には、
受けた恩徳に報いる報恩
受けた讎に報いる報復
の二種類がある。
楚の申包胥は、その生涯で報恩と報復をみごとに体現してみせた。
伍子胥の友人として知られるかれは王孫包胥とも書かれ、楚の王族であるといわれる。
血胤からくる祖国への愛国心が、かれを「報い」の実現へと駆り立てさせたのであろうか。
中国史人物伝シリーズ
申包胥
目次
友との訣れ
申包胥は、太子太傅(太子の師)伍奢の子である伍子胥と交友があった。
紀元前五二二年、楚の平王は謀叛のかどで伍子胥の父である伍奢を捕らえた。
伍奢には、二人の子がいた。伍尚と伍子胥である。
――父を助けてほしくば、直ちに参れ。
平王は二人に使者を送り、そう告げさせた。
二人は話し合い、伍尚は首都の郢へゆき父とともに処刑され、伍子胥は呉へ亡命して報復を図った。
出国する伍子胥を、申包胥が見送った。
「われは、必ず楚国を覆してやる」
そう決意を述べた伍子胥に対し、申包胥は、
「勉めなさい。なんじが楚国を覆せば、われはきっと復興させてみせよう」
と、返した。
一介の浪人が大国を滅ぼそうなんて、常人であれば一笑に付されるだけであろう。
だが、伍子胥の狂気じみた発言を、申包胥は正面から受け止めた。
呉へ亡命した伍子胥は、呉王闔閭に重用されるようになった。
死屍に鞭打つ
十六年後(紀元前五〇六年)、呉軍が楚に攻め込み、郢を陥とした。
楚の昭王は、混乱に紛れて郢から逃れ出た。
呉は昭王のゆくえを捜索したが、みつけることができなかった。
呉の将であった伍子胥は、平王の墓を暴き、平王の屍体に三百回鞭を打ちつけた。
申包胥は、郢が陥落すると難を避け、山中に身を隠していた。
伍子胥が平王の屍体に鞭打ったと聞いて、申包胥は居ても立っても居られず、人を遣り、
「なんじの報復はなんとひどいものだ。人を衆く集めれば天に勝つが、天が定まると天に敗れる、と聞く。
なんじはもと平王の臣で、北面して仕えていたではないか。それが今、死人を辱めている。
これは天道をないがしろにする極みではないか」
と、詰問させた。これに対し、伍子胥は、
「日が暮れたのに道が遠かったので、あわてて非道なことをせざるを得なかったんだ」
と、弁明した。
伍子胥は楚国を覆し、報復を果たした。
――なんじが楚国を覆せば、われはきっと復興させてみせよう。
申包胥の耳朶に、かつて自らがした発言が響き渡った。
――つぎは、われが報いねば。
申包胥は意を決し、楚を出た。
苦難の逃避行
申包胥がむかった先は、西北の秦である。
昭王の母は秦の公女であったから、危急を告げれば援軍を出してくれると踏んだのである。
申包胥は、履底に穴が開き、膝が剥き出しになり、足がたこだらけになりながらも、
七日七夜歩き続け、ようやく秦の首都である雍にたどりついた。
哀 訴
申包胥は秦の君主である哀公に謁見し、
「呉はまるで大きな豕、長蛇のように貪欲に上国を蚕食し、楚から暴虐をはじめました。
寡君は社稷を守ることができなくなり、草莽をさすらっており、下臣を遣わして危急を告げさせます。
夷の徳は厭きることがございません。もし君の隣国になれば、国境に患いをなしましょう。
呉がまだ楚を平定しないうちに、君は分け前をお取りなさいませ。もし楚が滅んでしまえば、
君の領土でございます。もし君のおかげで楚が存続できますれば、代々君にお仕えいたしましょう」
と、熱い口調で援軍を要請した。
「仰せのほど、しかと承った。しばし休まれよ。よく考えてから回答いたそう」
そう返した哀公の声に冷えを感じた申包胥は、
「寡君は草莽をさすらい、まだ隠伏するところがございません。どうして安息などできましょうや」
と、憤り、退出すると、庭牆によりかかって哭泣した。
熱 誠
申包胥は、立ったまま日夜声を絶たずに哭きつづけた。
これが、七日七晩にわたった。
かれが哭いて訴えかけた相手は、上天であったかもしれない。
天に訴えることで、秦の祖霊を動かし、哀公の翻意を促そうとしたのであろうか。
――もし祖霊がいるのなら、この衷心はきっと届くはずだ。
その信念だけが、申包胥を突き動かしていた。
信じられないことに、申包胥はまったく食事を摂らず、飲み物すら口に入れなかった。
この熱誠が、哀公の心を揺さぶらないことはなかった。
哀公の使者が、申包胥のもとにあらわれたのである。
「君がお会いになられます」
使者にそう声をかけられたとき、申包胥の顔面は火の気を失った灰のように生気を失い、顔の色は垢で黒ずみ、涙と鼻水が一緒になって流れていた。
申包胥を引見した哀公は、
「楚は無道であるとはいえ、このような臣下がいる。滅んでもよかろうか」
と、いい、目頭を熱くしながら無衣の詩を歌った。
――出師して、ともに呉を伐とう。
これが詩の意であった。
申包胥は哀公が詩を一章歌い終えるごとに三たび頓首の礼を行い、合わせて九回頓首してから座った。
哀公は、申包胥の礼を外さぬ挙措に満足し、子蒲と子虎の二将に、
「五百乗の兵車を率いて呉を伐ち、楚を救え」
と、命じた。兵車五百乗は、兵数でいえば、三万七千五百人の大軍である。
報 恩
紀元前五〇五年、申包胥の哀訴が引きだした秦の大軍が、
「楚を救う」
と、称して楚の領内にはいった。
呉軍と対峙すると、子蒲が申包胥に、
「われはまだ呉の戦い方を知らぬゆえ、そこもとが戦ってみてくだされ」
と、語げた。
申包胥は嫌な顔ひとつせず、手勢を率いて呉軍と戦い、撃ち破ってみせた。
その後も申包胥はつぎつぎと呉軍を撃破していった。
「呉の戦い方は、よくわかり申した」
子蒲は申包胥にそう告げると、淮水の上流にある稷から戦いに加わり、連戦連勝で沂へ進撃した。
そこで、呉王闔閭の弟である夫概が率いる軍に遭遇した。
秦軍は夫概の軍を破り、随にいる昭王のもとに駆けつけた。
秦軍は、楚軍とともに唐を滅ぼした。
その後、楚軍が反撃に転じると、呉軍は自国へ引き揚げた。
寡欲の人
紀元前五〇五年の冬に、昭王は郢に戻った。
全土を失いながら、一年も経たないうちに復帰を果たすことができたのである。
昭王は、危機を救ってくれた申包胥に恩賞として五千戸を授けようとした。
「われは王のために働きました。わが身の栄達のためにやったのではございません。
王はすでに地位を定めました。それ以上何を求めましょうや」
申包胥は、そう辞退して賞を受けなかった。
かつて伍子胥にした発言通り、祖国への報恩を果たしたことで、かれは十分満足したであろう。
報 復
三十年後、東方の越が呉を滅亡寸前にまで追い込んでいた。
その頃、申包胥が楚の使者として越王勾践を訪れた。
「どのように呉と戦えばよかろうか」
そう諮問した勾践に、
「戦は知を第一とし、仁がその次、さらにその次が勇です」
と、包胥が進言した。
勾践はその進言を活かし、紀元前四七三年に呉を滅ぼした。
申包胥は、越を使って楚国を滅亡寸前にまで追い込んだ呉に報復したことになる。
それにより、かれは生涯で報恩と報復という「報い」を体現してみせたといえよう。
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