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中国史人物伝

光武帝の姉よりも糟糠の妻を択んだ 宋弘(後漢)

――糟糠の妻は堂より下さず。

これは、後漢草創期の大臣である宋弘(あざなは仲子)の発言である。

"そうこう"という人が、

「"そうこう"の妻」

と、いった。

そんな冗談ととられかねないこじつけで、その名を憶えたものである。

成語の方が人口に膾炙した感があるが、宋弘はどのような人物であったのか。

中国史人物伝シリーズ

目次

事 績

宋弘は、前漢の末期に京兆尹の長安県で生まれた。
父の宋尚は、漢の成帝の時に少府(帝室財政を掌る大臣)にまで昇進した。
しかし、哀帝の寵臣である董賢に媚附せず逆らったため、罪に嵌められた。
宋弘は、少壮の頃から温厚な人柄で、哀帝と平帝の時に侍中(皇帝の側近)となり、
王莽が新王朝を建国すると共工(漢代の少府)に昇進した。
新の滅亡後、長安を占拠した赤眉が宋弘を召し出した。
――行きたくない。
宋弘はそう思ったが、拒否できる雰囲気ではなかった。
やむなく宋弘は腰をあげたものの、渭水にかかる橋まで来ると、川に身投げした。
従者に救出され、一命を取り止めた宋弘は、自分が水死したことにして、赤眉に仕えることを免れた。
光武帝は即位すると、宋弘を召し出した。これには応じた宋弘は、太中大夫(皇帝の顧問官)を拝命した。
建武二年(26年)、大司空(副首相)に昇進し、栒邑侯に封じられた(後に宣平侯へ移封)。
宋弘は、俸禄と領地から得られた租税を全て一族に分け与えたため、家には資産がなかった。
宋弘は大司空を五年務め、清廉な振る舞いで称賛された。
建武六年(30年)、上党太守の罪を糾弾したものの、立証できなかったため、大司空を罷免された。
その数年後に亡くなったが、子はおらず、領地は没収された。

糟糠の妻

光武帝の姉である湖陽公主が、夫に先立たれて寡婦になった。
「朝臣でたれがすぐれておりましょう」
光武帝は、姉に意中の人物がいれば叶えさせようと思い、廷臣たちの人となりをそれとなく話題にしてみた。
「宋公は立派なご容姿で、すぐれた才徳をお持ちです。群臣であの方に敵う者などございますまい」
宋弘は妻帯しているが、子がいない。そこにつけ込む隙があるのではなかろうか。
姉の好みを知った光武帝は、
「では、試してみましょう」
と、応じ、湖陽公主を屏風の後ろに座らせてから宋弘を引見し、
「高貴になれば交友する相手を変え、富裕になれば妻を変えるという。人情とはそういうものじゃないか」
と、心をくすぐってみた。宋弘はつられず、
「貧しい時に知り合った人を忘れてはならない。粗食を共にした妻を家から追い出してはならない。
臣はそう聞いてございます」
と、応えた。光武帝はふり向き、
「こりゃ、無理ですな」
と、苦笑まじりにいった。
宋弘が口にした
「糟糠の妻」
という語は故事成語となり、今なお通用している。
当時の貴人は、妻妾を多数持っていた。
家の存続を重んじた封建時代において、妻妾には子を設けることが求められた。
妻妾が子を産まなければ、さらに妾を取ることもあった。
その風潮からすれば、苦楽を共にした妻との絆を大切にし、それを貫いた宋弘の行蔵は特異であったろう。

賢人の効用

宋弘は桓梁ら三十人以上を光武帝に推挙し、中には高位高官に昇進する者もいた。
ある時、光武帝に博学の士を問われた宋弘は、桓譚という儒者を推挙した。
桓譚を登用した光武帝は、酒宴を催すたびにかれに琴を弾かせた。
これを聞いて宋弘は後悔し、桓譚を呼び出して𠮟りつけた。
その後、光武帝が群臣を集め、桓譚に琴を弾かせようとした。
桓譚は、万座の中に宋弘がいるのをみて取り乱した。
そのただならぬ様子に、光武帝が訝り、わけを尋ねた。
宋弘が冠を脱ぎ、
「臣が桓譚を薦めたのは、忠義と正義で陛下を輔けてもらいたいと望んだからです。
それなのに音色で陛下を惑わせてしまっているのは、臣の罪でございます」
と、謝罪した。
以後、光武帝は桓譚に琴を弾かせなくなった。

淫色を戒む

宋弘が、光武帝がくつろいでいる最中に謁見したことがあった。
玉座の後ろに新調された屏風があった。そこには、女人たちが描かれていた。
光武帝は、会話の最中に何度もふり返って屏風をみた。
宋弘が容色を正し、
「色を好むように徳を好む人をみたことがございません」
と、諫めると、光武帝は、すぐに屏風を片づけさせた。
「正しいことを聞いたらすぐにその通りにする。これでよいか」
と、光武帝が笑いながらいうと、
「陛下が徳を進められました。臣は喜びに耐えられません」
と、宋弘が応じた。
宋弘は、光武帝の天下統一に寄与したわけではない。
そんなかれに光武帝が高位を授けたのは、旧朝の大臣で名声があったためであり、
政策や伝統の継続を目論んだものであろう。
宋弘は直諫を憚らず、淫乱を排し、綱紀の粛正に努めた。
新政権において自身が果たすべき役割を心得ていたのであろう。

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