まず隗より始めよ 郭隗(戦国時代)
目次
中華の東北
戦国七雄―秦・楚・魏・韓・趙・斉・燕―の中で最も謎に包まれている国は、燕であろう。
燕は中華の東北部を支配した国で、首都の薊は現在の北京である。
燕の版図は西は趙、南は斉に接し、北は遊牧民族である東胡・山戎、東は東夷といった異民族が居住していた。(日本も東夷であるが……)
燕は周初に封建された国で、君主は周建国の元勲である召公奭の子孫であると称している。
これが真実であれば約七百年続いていることになるが、この国でどのような出来事が起こっていたのかは杳として知れない。中原から遠いというその位置によるのであろう。
子之の乱
紀元前三二三年、燕の君主が王号を用いた。このときの君主を、易王という。
紀元前三一六年、易王の子である燕王噲が宰相の子之に禅譲した。
すると、国は乱れ、人民は恐れ怨んだ。
――子之を除かねばならぬ。
二年後、将軍の市被が王噲の太子であった平を擁して決起した。
だが、子之を斃せないとわかると、市被は矛先を転じて太子平を攻めた。
内乱が数か月に及んだところを隣国の斉につけこまれて燕は滅ぼされ、併呑されてしまった。
だが、燕の臣民は斉の占領統治に抵抗し、紀元前三一二年に斉軍を燕から追放した。
主権を取り戻したかれらは、太子平に同情し、王位につけた。昭王である。
諮 問
昭王は即位すると、身を低くし幣物を厚くして賢者を招き、斉に報復したいと願った。
そんな昭王が報復するための方策を相談したのが、郭隗という学者であった。
「斉が、燕の乱れにつけこんで襲撃してきました。孤(諸侯の一人称)は、燕が小さくていまの国力ではとうてい斉に報復できないことくらい存じております。ですが、なんとしてでも賢者を得て、ともに先王の恥をすすぎたい。国を挙げて讎に報いるには、どうすればよいでしょうか」
昭王は郭隗のもとを訪れ、そう諮うた。
「帝者は師と行動を共にし、王者は友と行動を共にし、覇者は臣と行動を共にし、亡国は召使と行動を共にするものです。身を低くして相手に仕え、北面(臣従)して教えを乞えば、自分の百倍の才能をもった者がやって参りましょう。相手の前を趨走し、相手が休憩した後で休憩し、まず質問をし、教えを黙って聴きいれば、自分の十倍の才能をもった者がやって参りましょう。共に趨走すれば、自分と同じ才能をもった者がやって参りましょう。脇息やに寄りかかったり杖にもたれたり、流し目でみたり、指で指図したりすれば、雑役がやって参りましょう。怒って睨みつけたり打ちつけたりしたり、大声で叱りつけたりすれば、奴隷がやって参りましょう。これが昔からの道理にのっとって賢者を招くやり方でございます。大王がまことに国じゅうの賢者をお選びになられて、みずからお訪ねになられれば、大王みずから賢臣をお訪ねになられる、という評判が天下に広まり、きっと天下の賢者が燕に馳せ参じましょう」
そう応じた郭隗は、策を授けるにあたり、昭王の心意気を試したのかもしれない。
昭王は諸侯を従えて王者や覇者になりたいのではなく、ただひたすらに斉に報復することだけを望んでいた。
死馬の骨を買う
「寡人(諸侯の一人称)は、いったいたれを訪ねればよろしいのでしょうか」
この昭王の問いに、郭隗はまっすぐに答えず、つぎのような話をした。
――千金を出してでも、千里を走る馬がほしい。
そう望んだ君主がかつていたが、三年経っても手に入らなかった。
「臣が購入して参りましょう」
近臣がそう申し出たので、君主が遣いに出したところ、三か月で千里の馬をみつけた。
しかし、馬はすでに死んでいた。
近臣は死んだ馬の首を五百金で買い、君主に復命した。君主は激怒し、
「ほしかったのは生きている馬だ。なにゆえ死んだ馬をもらって、五百金を捨てたのか」
と、声を荒らげると、近臣は、
「死んだ馬ですら五百金でお買い求めになられる。生きている馬ならなおさらだ。王は馬の価値をよくおわかりになられておられる。きっと天下の人はそう思うに違いありません。馬はすぐにでもやって参りましょう」
と、落ち着き払っていった。
果たして、一年もしないうちに千里の馬が三頭もやってきた。
先従隗始
――死んだ馬とは……。
昭王が口を開くまえに、
「大王がまことに賢者を招きたいとお望みでしたら、まず隗よりはじめられよ」
と、郭隗が進言した。
――先生を、ですか。
昭王は、そういいたげな顔をむけながら郭隗をみつめた。
郭隗は、軽くうなずいてからことばをつづけた。
「隗のような者でさえ重用されるのであれば、隗よりすぐれた人物であればなおさらです。
千里の道でさえ遠いとはおもわないでしょう」
――大事を成すには、まず手近なことからはじめなさい。
郭隗の発言の真意は、ここにあろう。
大事をいきなり成し遂げることなどできない。手近なことから少しずつ積み上げていくしかないのである。
昭王は郭隗の献言を素直に受け容れ、郭隗のために宮殿を築き、郭隗を師として仕えた。
すると、魏から楽毅、斉から鄒衍、趙から劇辛、他にも天下の賢良の士が争うように燕に集まってきた。
いくら士を好んでいたとしても、昭王みずから他国からきた士にいきなり会うことはしなかったであろう。
燕を訪れた他国の士は、まず郭隗に面会し、郭隗に認められれば昭王に謁見できたのであろう。
郭隗は、それだけ昭王から信頼されていたのである。
報 復
昭王は、斉への報復を急がなかった。
かれは戦死者を弔い生き残った者を見舞い、臣民と苦楽を共に過ごしながら、国力の回復を図った。
二十八年経つと、国は富み栄え、人民は休息が十分に取れて戦いを厭わなくなった。
――機は熟した。
昭王は楽毅を上将軍に任じ、秦・韓・魏・趙と連合して斉に攻め入り、滅亡寸前まで追い込んだ。
その頃、郭隗がどうしていたのかは明らかではない。
だが、まだ生きていたのであれば、他国に去っていたであろう。
斉を占領した楽毅は、讒言に遭い、解任されてしまう。
郭隗もいつまでも燕にとどまっていれば、同じような目に遭ったであろう。
いつまでも王から厚遇され続けると、群臣から妬み怨まれて身を損なう可能性がある。
郭隗には、そのような危機を避けるだけの賢さがあった。そう想いたい。
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