劉向の子で王莽の腹心として新の国師になった古文派の儒学者 劉歆(劉秀)(前漢・新)(2) 移書讓太常博士
劉歆は宮中の図書を管理するなかで、
『春秋左氏伝』など古文(戦国時代の篆書)で書かれた書物をみつけ、
これらを学官に立てたいと望むようになった。
哀帝はそれを容れ、五経博士と講論することを許してくれた。
しかし、なかには、劉歆との討論を拒む者もいた。
劉歆はこれを責める書翰を、博士の考課をつかさどる太常博士に送った。
以下は、その内容である。
中国史人物伝シリーズ
目次
帝王の道
むかし唐や虞が衰えてから三代がかわるがわる興り、聖帝、明王がつぎつぎにあらわれてそれを受け継ぎ、
帝王の道がはなはだ著われた。
ところが、周室が衰えると、礼楽は正しくおこなわれなくなった。
このように道を保つのは容易ではない。
それゆえ、孔子は道がおこなわないことを憂え、諸国をへめぐり聘に応じられた。
その後、魯に帰国すると音楽を正し、(『詩』の)『雅』や『頌』もそのところを得た。
そして、『易』を修め『書』に序をよせ、『春秋』をつくり、帝王の道を記された。
夫子(孔子)が没すると、微妙な言辞が絶え、その七十余人の弟子が死去すると、世は大義から乖離した。
戦国時代になると籩豆の礼(礼節)を棄て、軍旅の陣をおさめ、孔氏の道は抑えられ、孫呉の術が興った。
孔氏の道は衰えゆき、暴秦に至ると経書を焚き、儒士を殺し、挾書律(書籍の私蔵を禁ずる法)を設け、
古を是としていまをそしる者に罪を被せ、道術はついに滅んでしまった。
漢初の道術
漢が興ったが、聖帝や明王の世からはるかに遠ざかり、
仲尼(孔子)の道はまた絶え、因襲すべき法度がなかった。
ときにただひとり叔孫通がおり、礼儀をほぼ定めたものの、
天下にただ『易』の占卜があるのみで、他に書はまだなかった。
恵帝の御世に至り、挾書律がようやく除かれたが、
絳侯(周勃)や灌嬰ら公卿大臣はみな甲冑の武夫で、そのことに意をとめなかった。
文帝の御世に至り、掌故(礼楽の故事などをつかさどる官)の晁錯に命じ、
伏生から『尚書』の教えを受けさせた。
屋壁から出てきて、朽ち折れ散絶していた『尚書』があらわれたというのに、
ときの師はそれをただ伝え読むのみであった。
学問の萌芽
ここで『詩』の学問が、はじめて萌芽した。
天下に衆くの書があらわれ、それらは諸子(『孟子』)や伝説(五経の解説書)ばかりであったが、
いずれも広く学官に立て、博士を置いた。
当時、漢朝の儒者は、賈生(賈誼)のみであった。
武帝の御世に至り、鄒、魯、梁、趙に『詩』『礼』『春秋』の先師が数多おり、
みな建元年間(紀元前一四〇年~紀元前一三五年)に世に出た。
当時はひとりでその経を修め尽くすことができず、
ある者が(『詩』の)『雅』を、またある者が『頌』を修め、これらを合わせてひとつの経を成した。
(『書』の)『泰誓』は後で得られたもので、博士が集まって解釈を施した。ゆえに、
「礼は壊れ楽は崩れ、書は缺(欠)け簡脱(竹簡の欠落)し、朕ははなはだこれを閔う」
という詔書を下されたのである。
ときに漢が興ってから七、八十年が経ち、経が分離してからかなりの歳が経っていた。
古文の発見
魯の恭王(武帝の異母兄の劉餘)が孔子の旧宅を壊して宮殿をつくろうとして、
壊した壁から古い字体(篆書)の文書がみつかり、
『礼』の逸篇三十九(以下、『逸礼』)と『書』十六篇(以下、『古文尚書』)、
——天漢年間(紀元前一〇〇年~紀元前九七年)以後に孔安国(孔子の十二世の孫)がこれを献上したが、
巫蠱の騒動に遭い、施行されなかった——
および、左丘明が修めた『春秋左氏伝』があり、いずれも古い字体で書かれたもので、
多いもので二十余通あり、秘府(宮中の書庫)に所蔵され、外に出ることがなかった。
成帝の愍念
成帝は学がそこなわれ文が缺(欠)け、真のすがたから離れてゆくことを愍えた。
そこで、秘蔵をひらき、旧文(古文書)を校理(整理)して、『逸礼』『古文尚書』『春秋左氏伝』をみつけ、
学官が伝える経を考究した結果、簡冊が脱けたり、錯乱したりしていた。
博く民間にさがしもとめると、魯国の桓公、趙国の貫公、膠東国の庸生の遺学がこれと同じであったが、
抑えられて施行されなかった。
これは、有識者が惜しみ、士君子が嘆くものである。
綴学の士
綴学(前人の学問をよせ集めるだけで、独創がない学問)の士は経伝の廃絶の闕失をおもわず、
陋いものによって寡ないものに就き、文字を分析し、言辞を煩雑にし、
学者は疲れ老いてその一芸を極めることができなかった。
口説(師承により伝授された学説)を信じて伝記にそむき、
末師を是として往古を非とし、国家に大事のある際に、ものごとに暗くそのもとを知らない。
それでもなお残缺を保守し、破られるのを恐れる私意をいだき、善に従い義に服する公心をもたず、
あるいは嫉妬し、情実を考えず、雷同して相従い、名声に随って是非を考え、
この三学(『逸礼』『古文尚書』『春秋左氏伝』)を抑え、『尚書』を備わったものとおもい、
——左氏は『春秋』を伝えず。
と、いうなんて、哀しくないのであろうか。
哀帝の詔命
いま、聖上(哀帝)はその御徳が神明に通じられ、皇統を継ぎ業を揚げられ、
また文教が錯乱し、学士がこのようであることを愍えられ、御心情をあきらかにされておられるとはいえ、
素直に従って謙譲し、士君子とこれを同じうすることを願い求めておられる。
ゆえに、明詔を下して『春秋左氏伝』を学官に立てるべきかを試問なされ、近臣を遣わして君命を奉じ、
弱を輔け微を扶け、二、三の君子と意を同じうし力をあわせて廃遺された学問を得んとこいねがわれた。
しかし、いまはそうではなく、深く閉ざして固守し、試問を肯んぜず、誦せずにこれを拒絶し、
他の道を塞ぎ、微かな学を絶滅しようとしている。
そもそも成果をともに楽しむことは簡単で、始めをともに苦慮することは難しいが、
これは衆庶(庶民)がすることであり、士君子に望んではいない。
この数家のことは、みな先帝が御みずから論じられ、今上(哀帝)が考え視られたもので、
その古文旧書はいずれも徴験(よりどころ)があり、内外(宮中と民間)相応じ、
なおざりにしてよいものであろうか。
並置の提案
そもそも礼が失われると野に求めるものであるが、古文の書も野に求めるべきではなかろうか。
さきに、『書』は欧陽氏が、『春秋』は公羊氏が、『易』は施氏と孟氏が博士に立てられた。
それなのに宣帝は『穀梁春秋』『梁丘易』『大小夏侯尚書』も学官に立てられ、
義が相反していても、これらを並置なされた。
なにゆえであろうか。
それは、過って廃するよりは過って立てるほうがよいからである。
「文武の道いまだ地に墜ちず、人にあり。賢者はその大なるものを識り、不賢者はその小なるものを識る」
と、古伝(『論語』)にある。
いま、これらの数家の言は大小の義を兼ね包むものであり、一方に偏って他方を絶つことなどできようか。
自説にこだわって残缺を守り、同門で徒党を組み、真の道を妬み、明詔に違い、聖意を失って、
文吏(法官)の義に陥るようなことは、君子のために取らない。
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