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中国史人物伝

保身にすぐれた専制者か権道を駆使した賢相か 祭仲(春秋 鄭)(3) 繻葛の戦い

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良好であった周と鄭の関係が、周の平王の死で変わりはじめる。

新たに立った桓王は鄭の荘公を疎んじ、領地交換を強行したあげく、

虢公を卿士(首相)に任じ、荘公から卿士の位を取りあげてしまった。

衰えゆく周王朝を支えてきた荘公はこの仕打ちを怨み、周に参朝しなくなった。

両者のあいだに緊張がはしるなか、桓王は大きな決断を下した。

中国史人物伝シリーズ

目次

王 師

不廷を討て——。
荘公三十七年(紀元前七〇七年)秋、桓王は勅命を発し、蔡、衛、陳、虢の軍を率いて鄭に攻め込んできた。
——ついに、きたか。
荘公は邀撃の兵を出し、鄭の首都新鄭の南にある繻葛という地で王軍(王師)と相対した。
——これだけしか王命に応じないのか。
周王室が衰え、四か国しか王命に応じなかった現実を目の当たりにして、祭仲は嘆息した。
とはいえ、兵数では王軍が鄭を圧倒していた。
王軍は六軍(七万五千人)、桓王みずから中軍を率い、右軍を虢公が、左軍を周公が率い、
右軍に蔡と衛の兵、左軍に陳の兵を補翼として配していた。
これを邀え撃つ鄭軍の兵数は、その半数にも満たなかった。

魚麗の陣

「いかがいたそう」
と、荘公が軍議で諸将に諮うたところ、公子突がつぎのように意見した。
「陳の兵は乱れ、戦意がございません。まず陳兵に襲いかかれば、逃げてゆきましょう。
それを見たら、王の兵卒はきっと乱れましょう。
蔡と衛の兵もささえきれなくなれば、われ先にと逃げ去るのは必定。
そうなってから王の兵卒に集中攻撃をかけますれば、うまくいきましょう」
幾度も戦闘の場裡を踏んでいるだけあって、公子突の戦術眼はすぐれている。
これが、鄭軍の作戦となった。
太子忽が右拒となって陳の兵に当たり、祭仲が左拒となって蔡と衛の兵に当たり、
高渠弥と原繁が中軍を率いて荘公を守った。
この戦いで、鄭軍は魚麗の陣を布いた。
兵車を前に押し出してその後に歩兵をおき、魚群のように進むのである。
しかも、兵車と兵車のあいだにも歩卒をはさみ、隙間のない布陣を敷いた。

「旝が動いたら、太鼓をたたけ」
祭仲は、荘公からそう命じられた。旝は、帥将旗である。
王軍の陣から進撃太鼓が鳴らされた。
王の六軍が喊声をあげながら左右を翼のように長く広げて鄭軍がなす魚麗を包みこまんと襲いかかってきた。
地が震え、視界を遮らんとするほどの砂塵が舞い上がり、地響きと
両軍合わせて十万人を超える将兵が挙げる喊声が戦場にこだまし、兵馬が濛濛と上げる砂塵が天を翳らせた。
しばらくすると、砂塵の合間からではあるが、王軍の右の翼がほころびだしたようにみえた。
——陳兵か。
そうおもいながら本陣をみると、帥将旗が動いた。
「進めや、進め——」
祭仲は太鼓をたたきながら、そう叫ぶと、手勢をひきいて蔡と衛の兵めがけて進撃した。
祭仲の師旅は敵兵にあたり、力戦して、蔡と衛の兵を戦場から押し出した。

折 首

三軍を補翼する三か国の兵が、戦場から消えた。
周の中軍は鳥の嘴のようになって鄭の中軍を押し潰さんとしていた。
その首にあたるところに、三か国の兵を蹴散らした鄭の右拒と左拒の師旅が襲いかかった。
さしもの周の精鋭であっても三方からの集中攻撃をこらえきれなくなり、
ついに鄭軍は王軍がなす鳥の首を折った。
こうなると周の兵卒は乱れ、潰走をしはじめた。
そこに鄭の三軍がいっせいに襲いかかった。
鄭軍の先陣が、視界に桓王をとらえるところまで近づいた。
鄭の兵車から桓王めがけて矢が放たれ、桓王の肩に中たった。
矢を放ったのは、鄭の大夫の祝聃(『史記』では、祝瞻)であった。
桓王は矢傷を負いながらも踏みとどまって奮戦した。それでも、頽勢を挽回することはできなかった。

王を見舞う

王軍は、陣に逃げこんだ。
「追撃しましょう」
祝聃が昂奮醒めやらぬようすで、そういい募った。しかし、荘公は、
「君子は人を凌ぐものではない。社稷が滅びなければ、それでよいではないか」
と、諭し、これを退けた。
夜になると、祭仲は荘公に呼ばれた。
「王の見舞いにまいれ」
祭仲は荘公の命を受けて桓王の陣へおもむき、桓王を見舞った。
「われは、負けたわけではないぞ」
桓王は、祭仲のまえでそう強がってみせた。
しかし、周王が一諸侯にも勝てなくなってしまったことで、
周王の権威は失墜し、天下の主権は完全に周王から諸侯に移ってしまった。

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