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中国史人物伝

胡服騎射を断行した開明の英主 趙の武霊王(趙雍)(戦国時代)(1) 野台

春秋時代に北方の強国であった晋が、韓、魏、趙の三国に分かれて戦国時代がはじまった。

趙は、邯鄲に都をおき、華北の山西省から河北省を支配し、

つねに北方の異民族(胡)と戦っていた。

紀元前4世紀中ごろ、秦が商鞅の改革により富国強兵を果たすと、

東方諸国は連合して秦と争う(合従)か、秦と和睦する(連衡)かを迫られるようになった。

そのようななか、

”胡服騎射”

とよばれる大胆な軍制改革を敢行したのが、

趙の武霊王(趙雍)である。

かれは、なにゆえ胡服騎射を導入しようとし、胡服騎射により何をめざしたのか。

中国史人物伝シリーズ

目次

即 位

趙雍は、紀元前四世紀後半に趙の君主であった粛侯(趙語)の子である。
粛侯の治世の前半は、商鞅の改革により秦が富国強兵を果たした時期にあたる。
恵文王の代に、連衡論者の張儀を宰相に据えた秦に趙が攻められて、藺と離石を奪われた。
その二年後の紀元前三二六年に、粛侯が亡くなり、趙雍があとをついだ。
葬礼には、秦・楚・燕・斉・魏から一万人ずつ精鋭が供出された。
各国が覇権を狙って趙を取り込もうとした結果であろう。
翌年には、韓、魏の君主と太子が趙の首都邯鄲を訪れた。
趙雍は宰相の陽文君趙豹と粛侯の貴臣であった肥義を恃みに聴政をおこなった。

称 王

洛陽への王都東遷以後、諸侯が覇権を争い、なかには周を凌駕する国力を得たものまであらわれたが、
みな周王をはばかり、周の天下を否定した楚を除き、たれも王号を称しなかった。
ところが、紀元前三三四年に斉と魏が王号を称し、趙雍が即位した直後に、秦が王号を称した。
張儀を嫌い、合従策を模索していた魏の公孫衍(犀首)はこれを問題視し、
山東諸国を連合させ、秦を討伐しようとはかった。
それには、諸国の君主に秦と同格になってもらわなければならない。
公孫衍はそう考え、諸侯に王号をそなえるようはたらきかけた。
燕がそれに応じ、紀元前三二三年に王号を称した。
のこる趙と韓の両国間で、使者が幾度も往来した。
趙雍は趙豹や肥義らに諮り、
——王号を称しよう。
と、肚を決めた。
武霊王四年(紀元前三二二年)、趙雍は趙を訪れてきた韓君(宣恵王)と區鼠で会同し、ともに王号を称した。
これで、中原の雄国の君主のすべてが王になった。
翌年、趙雍は韓の王女を夫人に迎えた。

合従離脱

武霊王九年(紀元前三一七年)、前年に魏の宰相に昇っていた公孫衍は、
趙をふくむ五か国の連合軍を率いて秦を攻めた。
しかし、五か国の足並みがそろわず、秦軍に撃破されてしまった。
——いまの国力では秦にかなわない。
そう見切った趙雍は合従からの離脱を決め、
——王号など、おこがましいわ。
と、愧じるおもいから、
「其の実無くして、敢えて其の名に処らんや」
と、いい、王号を返上した。
翌年、趙は秦に攻め込まれて、西都と中陽を奪われると、その三年後(紀元前三一三年)にも秦の侵攻を受け、
藺を抜かれるなど、秦の圧力を感じたこともあり、
趙雍は中原諸国の覇権争いには加わらず、独自路線を志向するようになった。

質子擁立

武霊王十年(紀元前三一六年)、燕王噲が宰相の子之に王位を禅り、大いに乱れた。
趙雍はそれをきくと、韓に人質になっていた燕の公子職を燕に送り、燕王に擁立した。
さらに先の話にはなるが、秦の武王が洛陽にまで出征して事故死すると(紀元前三〇八年)、
趙雍は燕に人質になっていた秦の王子稷を秦に送り、秦王に擁立した(昭襄王)。

野 台

趙の西には秦、南には魏、東には斉、北には胡とよばれる異民族がおり、いずれの国境にも緊張が走っていた。
四隣への対応に苦慮した趙雍は、
——九門へゆこう。
と、おもいたった。
このおもいつきがかれのその後を左右することになろうとは、このときおもいもよらなかったであろう。
九門とは、恒山(常山)にある宮室である。
春秋時代、太行山の最北の支脈である恒山付近は、北狄によって建てられた代国の治下にあった。
代は、名馬の産地として知られていた。
その代国を、紀元前四五七年に太行山脈西側の晋陽を本拠としていた趙が恒山をこえて滅ぼした。
趙は晋陽から中牟、さらに太行山脈の東にある邯鄲へとその首都を遷したが、
代が趙の北方の拠点であったことには変わらない。
恒山山脈は北方騎馬民族の中華への侵攻にたいする防衛線として非常に重要な役割を果たしていたのである。
『史記』(趙世家)によると、粛侯のときに趙が長城を築いたという記事があるが、
あるいはこの辺りに築いたのかもしれない。
武霊王十七年(紀元前三〇九年)に趙雍は九門に行幸すると、野台(展望台)を造り、
そこから斉と中山の国境を望みみた。
中山は、北狄によって建てられた国である。
——中山は、わが腹心にある。
そうつぶやいた趙雍は、その後の生涯を傾けることになる壮大なひらめきを得た。

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