Blog ブログ

Blog

HOME//ブログ//保身にすぐれた専制者か権道を駆使した賢相か 祭仲(春秋 鄭)(2) 周と鄭

中国史人物伝

保身にすぐれた専制者か権道を駆使した賢相か 祭仲(春秋 鄭)(2) 周と鄭

祭仲(1)はこちら≫

祭仲は、もとは国境を守備する役人にすぎなかったが、

鄭の荘公に見い出され、卿(大臣)にまで昇った。

祭仲は荘公の夫人を迎える使者になり、鄧へおもむいた。

荘公の夫人になった鄧の公女が生んだ忽は太子に立てられた。

忽には異母兄弟がいたが、祭仲は太子忽に肩入れした。

中国史人物伝シリーズ

目次

周と鄭

鄭は、周と良好な関係にあった。
鄭の初代君主の桓公は周の宣王の弟であり、甥の幽王と運命をともにした。
二代目の武公は、幽王の子で洛陽に遷都した平王を擁立してその卿士(首相)となり、
周王朝の安定に心を砕いた。
そんな武公に恩義を感じた平王は、武公の死後、あとをついだ荘公に卿士の地位もつがせた。
——鄭の勢力が大きくなれば、衰退しつつあった王室の権威を取り戻すことができる。
その期待もむなしく、鄭の権勢の増大に反比例するように、周王室の権威は衰えていった。この状態を憂え、
——ほかの諸侯をたよろう。
と、平王は考えはじめた。東の鄭に比肩できそうな諸侯といえば、西の虢がある。そこで、
——虢公を卿士にして、鄭を牽制しよう。
と、平王はおもうようになった。それを知った荘公は、平王に事の真偽を問い質した。
「そんなことはない」
言下に否定した平王は、周と鄭で互いに人質を交換しようと提案した。
そこで、荘公は太子忽を人質として周に出した。
荘公からすれば、最大限の誠意を示したといってよい。

娶 嫁

周に人質となった太子忽は、平王の寵愛を受けた。そこに、目をつけた陳の桓公が、
「公女を太子に」
と、鄭に申し込んできた。
荘公がこれを許してくれたので、荘公二十九年(紀元前七一五年)の四月に太子忽は陳へゆき、
公女の嬀氏(嬀は、陳公室の姓)を連れて鄭に帰ってきた。
その際、婚礼を行ってから祖廟に報告したので、嬀氏に随行していた陳の大夫(上級貴族)鍼氏に、
「先祖をあざむき、礼にそむくようなことをして、子孫が栄えようか」
と、批判された。

生まれながらの王

鄭の荘公二十四年(紀元前七二〇年)三月、周の平王が在位五十一年で崩じた。
嫡子の洩父が父王に先立って死去していたため、嫡孫の林が王位をついだ。これが桓王である。
平王のように廃嫡され、父を殺され、亡命を余儀なくされたという悲惨な過去をもたない桓王は、
生まれながらの王であった。
桓王にすれば、まるで天子気取りで兵を動かし、諸侯を従わせようとする鄭の荘公は、
天子たる自身の威光を翳らせる邪魔な存在でしかなかった。
「虢公を、卿士にせん」
桓王は、ついにそうもらすようになった。
それを知った荘公も、黙ってはいない。
「畿内の穀物を刈れ」
祭仲は荘公の命を受け、この年の四月に温の麦を刈り、さらに秋には成周(洛陽)の禾(あわ)を刈り取った。
その三年後(紀元前七一七年)、荘公は周に参朝し、はじめて桓王に拝謁した。
ところが、桓王は荘公を礼遇しなかった。
——無礼な。
この仕打ちを恨んだ荘公は、その二年後に意趣返しをおこなった。

領地交換

荘公三十年(紀元前七一四年)、鄭は魯と領地を交換した。
泰山の近くに祊という邑がある。
この邑は、周王が泰山を祀る際に、鄭がそれを助けるために下賜された湯沐の邑であった。
その位置は、鄭の都である新鄭から遠く、魯の都である曲阜に近く、いわば飛び地に当たった。
一方、魯は周王に朝覲する際の朝宿の邑として許の地を授かっていた。
その位置は、曲阜のはるか西方にして、新鄭のすぐ南にあった。
周王室は衰え、泰山を祀ることがなくなった。
それならば、泰山の近くに湯沐の邑を保有する必要などなかろう。
そうした合理的な判断により決行された祊と許の交換を、
——鄭は、周王室には仕えない。
と、受けとった桓王は、ついに虢公を卿士に任じた。ただし、『春秋左氏伝』によれば、
——鄭伯は王の左卿士たり(隠公九年)。
と、記されているので、鄭の荘公は依然として卿士の地位にあった。
そうなると、虢公はおそらく右卿士に任じられたのであろう。
ついでにいえば、虢には虢仲を始祖とする東虢と虢叔を始祖とする西虢があり、この虢公は西虢の君主である(東虢は、その五十年ほど前に鄭に滅ぼされた)。

決 裂

さらに、桓王は、荘公三十二年(紀元前七一二年)、鄭の四邑を取り上げ、
代わりに直轄の十二邑を鄭に下賜した。
邑の数だけでみると、桓王が鄭に恩を施しているようにみえるが、
実状は、もはや統治しきれなくなった地を放棄して良地を召し上げたのである。
——恩知らずめ。
荘公は胸裡では罵ったものの、怒りをこらえ、ことを荒らげないようつとめた。
——もはや、鄭など恐れるに足らん。
これに味をしめた桓王は、荘公三十七年(紀元前七〇七年)、ついに荘公から卿士の位を取りあげてしまった。
荘公はこの仕打ちを怨み、周に参朝しなくなった。

SHARE
シェアする
[addtoany]

ブログ一覧