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中国史人物伝

“帰りなん、いざ” 酒と菊を愛し、虚飾に彩られた田園詩人 陶淵明(陶潜)(東晋・南朝 宋)(1) 閑居三十載

魏から晋、さらに東晋へとつづく政治への不安から貴族の多くが現実から逃避し、

詩作や清談に身をおくようになった。

かれらが漢文化を継承発展させ、老荘思想や仏教などを取り入れて六朝文化が形成された。

六朝文化を代表する詩人のひとりである

陶淵明(陶潜)(365-427)

は、没落した貴族の家に生まれ、29歳で生活のために地方官の職について以来、

出仕と辞任を繰り返したあげく、41歳の時に官を辞し、

廬山の麓にある郷里に帰ると、心境を詩に託した。

これがかれの作品で最も有名な「帰去来の辞」である。

何ものにも拘束されない自由を手にいれた陶淵明は、官を辞してから20年余、

貧困にあえぎながらも晴耕雨読の生活を続け、詩作にふけった。

かれの著作『桃花源記』は、理想郷を描いた作品として名高い。

陶淵明は酒と菊を愛し、現存するかれの詩の半数は酒のことが詠われている。

それゆえ、”篇篇酒あり” と評される。

中国史人物伝シリーズ

目次

猛 志

陶淵明は江州の州都尋陽の南郊で廬山の北麓にある柴桑県の出身で、少年のころは読書と農耕に励むかたわら、
琴を弾いたり読書にふけったりして、世事と距離を置いていた。
——わが祖のように世をあっとさせたいものだ。
陶淵明がいったわが祖とは、曾祖父とされる陶侃と外祖父の孟嘉である。
『宋書』隠逸伝や『晋書』隠逸伝などによれば、陶淵明の曾祖父は陶侃である、と記される。
陶侃は小役人から荊州軍団(西府軍の前身)の司令官にまで出世し、
数々の戦に勝って東晋の政権基盤を固めるのにおおいに貢献した名将であった。
しかし、陶淵明が陶侃の直系の子孫なのかについては異説もあり、判然としない。
ただし、陶淵明が孟嘉のために書いた「晋故征西大将軍長史孟府君伝」に、
「陶侃の第十女を娶る」
と、記したことから、かれが陶侃の血胤にあると自認し、そのことに誇りをもっていたのは間違いなかろう。
孟嘉は西府軍を統括していた桓温の参謀となり、再三にわたる北伐を敢行して、
蜀を治めていた成漢を滅ぼし、旧都洛陽を奪還するなど桓温がたてた赫赫たる武勲の数々に大きく寄与した。
陶侃や孟嘉のような祖先をもちながら、家名は廃れ、貧しくなる一方であった。
——つばさをあげて遠く飛ばん。(「雑詩」其五)
陶淵明は、少壮ながら四海をこえんばかりの猛志をいだき、野望で胸をふくらませた。

閑居三十載

陶淵明は三十年ものあいだ、俗世とは隔たった暮らしを送った。
その間、仕官の話がなかったわけではない。
しかし、陶淵明はいずれにも応じなかった。
矜持の高さゆえである。
——最初の職でその後の出世が変わってこよう。
そうおもえば、仕官に慎重にならざるを得ない。
そんなかれが田園の生活を捨てて官途に就いたのは、太元十八年(三九三年)、二十九歳のときであった。
十年ほど前に東晋の宰相を務めていた謝安がはじめて仕官したのが四十歳をこえてから
であったことをおもえば、二十九歳での出仕は、けっして遅くはなかったであろう。
このときかれが就いた職は、江州の祭酒、つまり教育長である。
じつはもともとかれは仕官に乗り気ではなかったが、家が貧窮に瀕していたため、出仕せざるを得なかった。
そのような消極的な理由で出仕してしまったわけであるから、仕事が自分に向いていないとわかってしまえば、
無理をしてまで仕事を続けようという気がおこらず、数日でみずから辞めて帰郷してしまった。
その後、江州から主簿(庶務課長)に召されたが、応じず、
みずから田畑を耕して生計を立てていたが、過労のため病を得た。

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