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中国史人物伝

交州で三十年仁政を行った呉末の名将 陶璜(三国 呉・西晋)(1) 奇策

三国時代に江南を支配した孫呉の最大の悩みは、人手不足にあったとおぼしい。

孫権の最盛期でさえ、十万の大軍をしつらえるのに苦慮したようである。

不足しがちな人員を補充するため、呉は周辺の異民族までも徴発していた。

異民族はむろんこれに反発し、朝廷は頻発する叛乱に最後まで悩まされた。

中央の搾取に苦しんでいるのは、地方の役人も同様であった。

孫休の治世の終わりに、魏が大軍を発して、蜀に侵攻した。

地方の役人のなかには、異民族を巻き込み、

魏を恃みに反乱を起こそうと画策した者まであらわられた。

中国史人物伝シリーズ

目次

呂興の乱

交阯太守の孫諝は、貪婪なうえに暴虐で、百姓から怨まれていた。
呉の永安五年(二六二年)、察戦の鄧荀が、朝廷より交阯に遣わされた。
察戦は呉に特有の官職のようであるが、
孔雀を調達するよう命じられた鄧荀は、交阯で孔雀三千羽を徴発し、秣陵へ送らせた。
人民は、これに苦しんだ。
すると、永安六年(二六三年)五月、交阯郡の郡吏の呂興が反旗を翻して、孫諝と鄧荀を殺した。
これに九真、日南の二郡も呼応した。
年末に蜀漢が魏に滅ぼされ、交州は魏の版図と接するようになった。
そこで、呂興は魏に使者を発して、郡ごと服属するとともに、太守と兵の派遣を要請した。
甘露元年(二六五年)に魏から受禅した西晋の武帝(司馬炎)はこれをいれ、
呂興を安南将軍、交阯太守に任じた。
しかし、援軍がこないうちに呂興は殺され、後任もあいついで世を去った。
——交州は動揺している。
そう看取した呉の皇帝孫皓は、宝鼎三年(二六八年)に、
交州刺史の劉俊と前部督の脩則らに交阯に攻め入るよう命じた。
一方、晋の南中監軍の霍弋は犍為の人楊稷を交阯太守にして、
将軍の毛炅、九真太守の董元、牙門将の孟幹、孟通、李松、王業、爨能らをつけて交阯にむかわせた。
呉軍は合浦を経て交阯郡に入ったものの、古城で晋将の毛炅に破れ、劉俊と脩則が斬られてしまい、
合浦まで退いた。

分水の戦い

陶璜(あざなは世英)は丹楊郡秣陵県出身であったが、父の陶基が交州刺史を務めていたため、
交州の地理に明るく、また軍事にも心得があったことから、
「父は交州刺史を務め、臣は交州の地理を存じております。
交州の晋賊を討ち、三郡をふたたび呉のものにいたしとう存じます」
と、上表した。
陶璜は蒼梧太守に任じられ、建衡元年(二六九年)の冬に
監軍の虞汜、威南将軍の薛珝らとともに、荊州から交阯を攻略するよう命じられた。
建安から海路をとる監軍の李勖と督軍の徐存らの軍と合浦で合流した後、
李勖らが乗ってきた舟を利用して交阯を攻める作戦であった。
ところが、海が荒れて進軍に難渋したため、李勖は導将(道案内する部将)の馮斐を殺して建業に帰還した。
そのため、陶璜らは荊州から引き連れてきた軍のみを率いて陸路にて西進し交阯郡に入り、
分水で楊稷と戦ったが、部将を二人喪って敗れ、合浦まで退いた。薛珝は立腹し、
「賊を討ちたいと上表したくせに、二将を喪うとは。その責任はいずこにありや」
と、陶璜を責めたてた。これに対し、
「下官が思うように動かず、諸軍が順わなかったゆえに敗れたまでのこと」
と、こともなげに返した陶璜は、
夜になってから百人の兵を率いて董元を襲って物資を鹵獲し、船に載せて帰ってきた。
これをみて、引き揚げようとしていた薛珝は、陶璜に謝った。
そして、陶璜は前部督に任じられた。
晋軍は兵を呉軍にむけることをせず、董元らを任地に帰らせて、交阯、九真、日南の三郡を慰撫した。

九真攻略

——なんとか交州を奪い還すことはできないか。
陶璜が考えぬいて採った作戦は、
陸路により交阯をめざすのではなく、海路より九真に至るというものであった。
「これなら、敵の不意を衝けよう」
陶璜は虞汜や薛珝らの賛同を得て、建衡三年(二七一年)四月、合浦を発ち、舟上の人になった。
陶璜らが上陸し、九真に近づくと、九真太守の董元が邀撃の兵を引き連れてあらわれた。
「はやく攻撃をかけましょう」
と、諸将が口ぐちにいい募った。しかし、陶璜は、
——牆(垣)のなかに伏兵がおるやもしれぬ。
と、疑い、長戟部隊を後詰めにおき、晋軍に攻めかかった。
しばらく戦うと、董元は退却した。
陶璜がこれを追撃すると、はたして敵の伏兵があらわれた。
陶璜らの追撃の足が一瞬とまった。
それをみて佯北をつづけていた董元が反転し、呉軍に攻めかかってきた。
——きたな。
陶璜は後詰めの長戟部隊を敵の伏兵に当たらせ、みずからは董元の軍と干戈を交えた。
長戟部隊は敵の伏兵を撃退し、陶璜の軍も董元の軍を蹴散らし、晋軍を大いに撃ち破った。
陶璜は敗走する董元らを追撃し、そのまま九真城を包囲した。
「城内に解系がいる」
と、陶璜はつぶやいた。
解系は九真では名うての勇将であった。かれが董元のもとにいるかぎり、いつまでたっても城は抜けない。
陶璜が思案をつづけていると、
「解系には弟がおります」
と、語げてくれた者がいた。
「おおっ」
おもわず手を拍った陶璜は、さっそく解系の弟の解象を誘って鄭重にもてなし、
解象を自身の軺車に乗せ、鼓吹(楽隊)や導従(従者)をつけて行かせた。そして、
「これを兄上に」
と、いって書を手渡した。すると、解系は疑心にかられた董元に殺されてしまった。ほどなく、
「城内が混乱しております」
という報せがはいった。
陶璜は城内の混乱に乗じて攻撃をかけ、董元を戦死させ、ついに九真を陥とした。

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