名実一致をめざし、王莽に抗った気骨の宰相 何武(前漢)(3) 逆風
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揚州刺史として善政を布いた何武は、朝廷に入ると昇進を重ね、
御史大夫、大司空(副首相)にまで昇り、氾郷侯に封ぜられた。
何武は成帝や丞相(首相)の翟方進との良好な関係を背景にして、
名実一致を目的とした種々の制度改革を敢行していった。
しかし、劾奏が多かったため、煩碎(煩瑣)と評され、賢公と称されなかった。
そして、翟方進と成帝が相次いで世を去ったことで、風向きが変わる。
中国史人物伝シリーズ
目次
哀 帝
綏和二年(紀元前七年)、成帝が嗣子のないまま崩じ、太子劉欣が二十歳で即位した。
これが哀帝である。
哀帝は即位すると大臣に褒賞し、あらためて南陽郡犨県の博望郷を氾郷侯の国として邑千戸を増封された。
それよりまえ、何武は吏人を遣って、郡にいた後母(継母)を迎えさせた。
ちょうどそのころ、成帝が崩じ、その吏人が道中で盗賊に遭うことを恐れ、
何武の後母を郡から連れ出そうとしなかった。すると、
「何武は、親をぞんざいに扱っております」
と、哀帝の左右の臣に譏られてしまった。
哀帝も即位したばかりで大臣を改易したいとおもっていたので、
「君の挙措は煩雑かつ苛酷で衆心に合わず、親孝行の評判もきこえず、悪名が流行っている。
これでは四方に範を示すことなどできぬ。それ大司空の印綬を返上し、罷めて帰り国に就け」
と、命じた。
何武は鮑宣を西曹掾(属官)に除任して、すごぶる尊重し、鮑宣を推薦して諫大夫としていた。
その鮑宣が、何武が罷免されてから五年後に、
「もとの大司空何武は、冤(ぬれぎぬ)をきせられました」
と、しきりにいいたてた。
さらに、寵臣の董賢の薦めもあり、何武はふたたび徴されて御史大夫になった。
そして、ひと月余りで前将軍に徙った。
王莽の手口
成帝の御代において、かれの生母、すなわち元帝の皇后であった
王太后の一族が外戚として大きな権勢をもつようになり、
王太后の兄弟はそれぞれ高位につき、要職を占めるようになった。
王太后の甥もその恩恵に預かったのであるが、王莽は父の王曼が早く死んだために、不遇をかこっていた。
王太后はそれを憐れみ、大司馬の王根が辞めると、王莽をその後任にすえた。
ところが、成帝が崩じ、哀帝が即位すると、自身の外戚を重用した。
そのため、王莽は失脚し、領国に就いた。ところが、たまたま日食がおこった。
これにかこつけて、王莽の無実を訟える者が多かった。その結果、王莽は都に召還された。その後、
「大常(儀礼担当大臣)にふさわしい者を挙げよ」
との詔が下った。すると、
「われを推挙していただけまいか」
と、何武は王莽からひそかに求められた。
どうやら、ほかの重臣にもおなじようなことをしているという。
——これが、きゃつのやり口か。
自身に都合のよいように世論を誘導せんとする王莽の狡猾な手口を見切ったおもいの何武は、
王莽を推挙しようとしなかった。
その数か月後に、哀帝が崩じた。
大司馬
哀帝は死の間際、かたわらで不安げにしている大司馬董賢に皇帝の璽(印)と綬(紐)を手渡した。
——朕の後は、なんじが帝位に即け。
との意を示したのである。
哀帝が崩じると、王閎がおばの王太皇太后の許しを得て、董賢から皇帝の璽綬を取りあげた。
王閎から璽綬を得た王太皇太后は、王莽を召し出して、董賢を弾劾させた。
董賢は大司馬を罷免され、自殺した。
その後、王太皇太后は、
「大司馬にふさわしい者を挙げたもれ」
と、有司に詔した。すると、大司徒の孔光以下朝臣がこぞって、
「新都侯の王莽がよろしゅう存じます」
と、応じた。
——このままではいかん。
何武は仲のよい左将軍の公孫禄に相談をもちかけ、
「往時の孝恵(恵帝)や孝昭(昭帝)のような少主の御世に、外戚の呂氏、霍氏、上官氏が権柄を執り、
社稷が危うくなったことがあった。いま、
孝成(成帝)、孝哀(哀帝)と続けて世嗣がなく、まさに親近して幼主を輔ける者を選び立てるべきである。
それには、異姓の大臣に権力を持たせ、近親者と疎遠な者が交錯しあって国のために便宜を計るのがよい」
と、謀り、たがいに推薦しあった。
とはいえ、はたせるかな、王太后は王莽を大司馬に起用した。
何武と公孫禄は、王莽の諷意をうけた有司に劾奏されて、ともに罷免され、封国に就いた。
大 獄
王太皇太后は王莽と諮り、哀帝のいとこで九歳の中山王箕子(劉興の子)を迎え、帝位に即けた。
これが平帝である。
王太皇太后と王莽は、平帝の外戚に取って代わられないよう手を打った。
すなわち、平帝の生母衛氏を中山にとどめ、都長安に出てこないようにしたのである。
「主上の母君を国にとどめたままなのは、孝にもとるのではないか」
そう考え、実行に移そうとしたのが、なんと王莽の嫡子の王宇であった。
かれは妻の兄である呂寛らと謀り、元始三年(三年)に、衛氏を長安に入れようとした。
だが、事が未然に露見してしまい、獄に下されて自殺した。
野望のためであれば、王莽はわが子にすら容赦しない。他人であればなおさらである。
ときの大司空甄豊は王莽の諷意をうけ、平素より王莽を批判している人物をこれに連座させて誅していった。
その数は、なんと数百人にのぼった。
その中には、衛氏や呂寛、それに鮑宣らが含まれた。
そして、何武のもとにも大理正(大判事)の檻車がつかわされた。
——もはやこれまでか。
何武は観念し、自殺した。
王莽は何武に、「剌侯」と、諡した。
『逸周書』諡法解によれば、
——不思忘愛曰剌。愎佷遂過曰剌。
とあり、王莽の悪意が感じられる贈諡である。
しかし、何武の無実をいい立てる者が多かったので、王莽はやむなく何武の子の何況に侯位を嗣がせた。
その後、漢から帝位を簒うと、王莽は何況の位を奪って庶人とした。
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