保身にすぐれた専制者か権道を駆使した賢相か 祭仲(鄭)(1) 共叔段の乱
その代表が斉の桓公や晋の文公である。
覇者の死後、後継をめぐってお家騒動がおこり、公子たちの母や妻の実家が後継争いに関与し、
重臣が諸公子をつぎつぎに君主に擁立していくうちに覇権を失った。
春秋時代における最初の覇者を挙げるとすれば、鄭の荘公になろう。
中華の中心にあり、交通の要衝を占め、人や物が集まる鄭を
40年超もの長きにわたり治めた荘公は、衰えゆく周を支えながらも周王に疎まれて
征討をうけたものの、王師(王軍)を撃破するほどの力があった。
しかし、荘公が亡くなると、諸公子が後継をめぐって骨肉の争いを繰り広げた。
その間鄭の宰相を務めた
祭仲(?-前682)
は、君主がつぎつぎに替わっても権柄を握りつづけ、衰えゆく鄭を一手に支えた。
『春秋左氏伝』にはかれの専横を批判する記載があるのに対し、
『春秋公羊伝』には祭仲の権を賞賛する記載がある。
権とは、常道にそむきながらも、最後にはふさわしい結果に落ち着くようにすることをいう。
祭仲は宋に強迫されて、やむなく君主(昭公)を放逐し、その弟を君主に擁立して(厲公)、
国を保全しておき、後に厲公を追放し、昭公を鄭に復帰させた。
たれも害さずに鄭の正統を守ったことは、讃えられてよいのではなかろうか。
中国史人物伝シリーズ
目次
祭の封人
祭仲については、『春秋左氏伝』(桓公十一年)によれば、
——祭の封人仲足、荘公に寵有り。荘公卿たらしむ。
と、記される。
仲というのは二男という意味のあざなで、足が名であるから、祭足というのが本名なのであろうが、
人口に膾炙している祭仲で通す。
祭仲は、もとは鄭の首都である新鄭の北にある祭邑にあって封人すなわち国境を守備する役人にすぎなかった。
それが鄭の荘公に見い出され、気に入られて大臣にまで昇った。
乱世に移行しつつあったときとはいえ、辺境の地に勤務していた警察官が
総理大臣にまで昇りつめるというのは大きな飛躍といえよう。
荘公が好き嫌いだけで人事をおこなわないとおもわれることから、
祭仲には相当な才覚があったことがうかがえよう。
共叔段の乱
武 姜
荘公の父である武公は、周の平王の外祖父である申侯の公女をめとった。
申は、犬戎という異民族とともに西周王室を滅ぼした国である。
武公の父桓公は、その際に殺されたのであるから、武公にとって、いわば仇讎の女を正夫人にしたことになる。
武公の夫人になった申の公女は、武公の諡と申公室の姓から武姜と呼ばれる。
武姜は寤生と段の二人の公子を生み、武公は兄の寤生を太子に立てた。
窹生を嫌い、弟の段を愛した武姜は、ことあるごとに寤生を廃嫡し、段を後嗣にするよう武公に訴えた。
しかし、武公は聴きいれなかった。
武姜が寤生を嫌ったのは、難産であったからとされる。寤生とは、逆子のことである。
武公が病気になったとき、武姜から段を後継にするようせがまれたが、聴きいれなかった。
紀元前七四四年、武公が亡くなり、寤生が即位した。これが荘公である。
「段どのに、大邑を」
荘公は、母の願いをききいれ、弟の段を京(のちの滎陽)という邑に封じた。
京は、鄭の首都新鄭よりも大きな邑であった。
蔓 草
——これは、まずい。
そう危惧した祭仲は、
「臣下の都城が百雉(雉は、高さ一丈、長さ三丈)をこえてしまうと国の害になります。
先王の制(きまり)によれば、都城は大きなものであっても国都の三分の一をこえてならない、
となっております。
いま、京はそれをはるかにこえております。君はじきに堪えられなくなりましょう」
と、反対し、荘公に翻意をうながした。
「母君のご所望ゆえ、いたしかたあるまい」
と、荘公が返すと、祭仲は、
「姜氏はこれで満足などなさいません。早く対策なさるにこしたことはございません」
と、いい、段を蔓草(はびこった草)にたとえて、
「滋蔓せしむることなかれ。蔓せば図り難き」
(はびこらせてはなりません。はびこらせれば、もはや取り除くことができなくなります)
と、強諌した。害は小さいうちに除去しなければ、取り返しのつかないことになる。祭仲は、さらにつづけて、
「草でもはびこってしまえば除けません。まして、母君がご寵愛なさる弟君なら、なおさらです」
と、いいつのった。それでも荘公は、
「あのぶんだといずれ自滅するだろうから、それまでしばらく待とうではないか」
と、悠長にいった。
そんな荘公の態度をよいことに、段は勝手に領地を拡げ、母の手引きで新鄭の都を襲撃する計画を立てた。
「もう、よいだろう」
荘公二十二年(紀元前七二二年)、荘公はようやく重い腰をあげ、京を急襲した。
敗れた段は、京から鄢へ逃げてそこでも敗れ、さらに共という国に亡命した。
太子忽
祭仲は荘公の夫人となる公女を迎えに鄧へゆき、公女を鄭まで送り届けた。
鄧は曼姓であったので、夫人は鄧曼と呼ばれた。
鄧曼は、忽(のちの昭公)を生んだ。忽は、太子に立てられた。
生母の輿入れに付き添ったこともあり、祭仲が荘公の公子たちのなかで太子忽に肩入れするようになったのは
自然の流れといえよう。
忽には、すくなくとも、突、亹、儀(嬰)という三人の異母兄弟がいたことが知られている。
なかでも、公子突には旗鼓の才があった。
荘公二十二年(紀元前七二二年)に荘公が弟の段を放逐した際に、段の子公孫滑が衛に出奔した。
そのため、鄭が滑を匿った衛と交戦しなかった年はないといってよい。
荘公二十六年(紀元前七一八年)の春に、鄭は衛を攻めた。
衛は、南燕の師を率いて応戦した。
祭仲らが鄭の三軍を率いて南燕の師に対峙し、陣を布いた。
その間に、太子忽と公子突の兄弟が制(のちの成皋)の兵を率いて南燕の師の背後にまわり、
南燕の師を挟撃する態勢を整えた。
「かかれっ」
祭仲が進撃太鼓をたたくと、鄭軍がいっせいに南燕の師に襲いかかった。
しばらくすると、南燕の師が潰走していった。
「太子、うまくやりましたな」
祭仲は、太子忽の将器に欣然とした。
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