中隠を志向した閑居の達人 陶淵明や李白とならぶ飲酒詩人にして平安文化の恩人 白居易(白楽天)(唐)(12) 終活
詩、酒、琴を三友とし、
「此より身を終ふるに到るまで、盡く閑日月爲らん」(『洛陽有愚叟』)
と、詠い、生を愉しんでいた白居易が、生涯最大の疾病に襲われたのは、
68歳の冬のことであった。
開成4年(839年)10月甲寅(6日)の朝旦、
突如として目がくらみ、肘が痺れ、左足が麻痺したりした。
「風痺(中風)ですな」
これが、白居易を察た医師の診たてであった。
過度の飲酒が祟ったのであろう。
この後遺症で左足が動かなくなり、白居易は飲酒と詩作とをひかえざるを得なくなった。
中国史人物伝シリーズ
白居易(1) 寒門
白居易(2) 科挙
白居易(3) 仕官
白居易(4) 長恨歌
白居易(5) 順風
白居易(6) 貶謫
白居易(7) 琵琶行
白居易(8) 白堤
白居易(9) 蝸牛角上
白居易(10) 中隠
目次
風 疾
白居易は仏教と老荘を拠りどころにして大病とむきあい、
軀体を気にせず憂いを忘れ、座禅を組んで観想してから治療をおこなった。
そのかいあってか、ひと月ほどで小康状態を得、安静にしているうちに、
(詩を、詠みたい。)
という気が湧きあがって抑えきれなくなり、「病中詩」を詠んだ。そのなかでかれは、
「蓋し老病相乗り、時有りて至るのみ」
と、この病気を老衰と断じ、
「若し楽天に病苦を憂ふるかと問はば、楽天は命を知りて了(しまい)に憂ひ無し」(「枕上作」)
とまでいってのけた。
とはいえ、かれが死を意識したことはたしかであり、翌年(八四〇年)には、
「栄枯憂喜と彭殤(長寿と夭折)とは、都べて人間の戯の一場(芝居の一場面)に似たり」
と、断じ、
昨に風疾に因り長往に甘んずるも(こないだ風疾に罹ったときは死を覚悟したものの)
今は陽和に遇いて又少康し(いまは暖かくなって小康を得た)
還た遠行の装束了はるに似たり(遠く旅立つ準備ができたようなものであるから)
遅廻して且く住まるも亦た妨ぐる無し(まわり道をして少しとどまったところで大差はなかろう)
と、詩に詠んだ(「老病相仍り、詩を以て自ら解く」)。
楽天的にものごとをとらえて苦難を克服するかれの精神のたくましさは、
七十歳を前にしてもなお健在であった。
香山居士
苦しみの中にも喜びはあった。
開成五年(八四〇年)、風疾がやや回復の徴候をみせるなか、阿羅が長男の閣童を生んだ。
これまで男児に恵まれなかった白居易であったが、
孫とはいえ、六十九歳になってようやく自身の血を受け継いだ男児を授かることができた。
——長生きしたかいがあったわ。
この年の秋、かれは香山寺に経蔵堂を建立した。
落成した九月二十五日に著わした「香山寺新修経蔵堂記」に、
「道場主の仏弟子香山居士楽天」
と、記した。以後、かれは「香山居士」と号した。
十一月に、白居易は香山寺の経蔵に『白氏洛中集』を納めた。その中で、かれはつぎのように記している。
理詰めで詩を詠めば、ことばが質朴となる。意のままに詩を詠めば、放逸に感じられる。
質朴なれば低俗と変わらず、放逸なれば酔狂と変わらない。
それでもそのような詩がよいと心に決め、それを楽しんで貫けば、俗狂の誚りを受けようともかまわない。
それほど、かれは自身の詩に矜持をいだいていた。
果たして、宋代に、かれの詩は、蘇東坡から
「白俗」
と、酷評されるが、いずれそう評されるであろうことを予見できたのであろうか。
致 仕
会昌元年(八四一年)、古稀を迎えた白居易は、年末にふたたび病を得て百日の休暇を願い出た。
病牀においてかれは、
「七十にして致仕することは、礼法に明文有り」
「年高くして須く老を告ぐべし」
と、かつて詩(『不致仕』)に詠んだのを憶い出し、
——言行を違えるわけにはいかぬ。
というおもいから、休暇満了後の復帰ではなく、致仕(引退)を願いでた。
しかし、致仕官の裁可のないまま百日の休暇が満了して停職となり、
年が変わって会昌二年(八四二年)になっても裁可がおりない。
いわば宙ぶらりんの状態になった。
心情を落ち着けるべく、白居易は『白氏文集』をまとめはじめた。
そして、『白氏長慶集』五十巻およびそれ以降の作を『後集』として二十巻にまとめた
『文集』七十巻を完成させ、本廬山の東林寺に納めた。
不幸続き
停職中は俸禄ももらえず無給となるため、しだいに余裕がなくなってきたように感じつつあった七月に、
劉禹錫がこの世を去った。
——われよりも波瀾に富んだ七十一年であったな。
と、親友の生涯に思いを致した白居易に、さらなる不幸が襲いかかる。
女婿の談弘謨が、病死したのである。
——なんということか。
遺された娘と二人の児の不運を嘆きながら、白居易は三人を引き取った。
その後、ようやく致仕官の裁可がおりた。
白居易は、刑部尚書(司法長官)(正三品)を拝命したうえで致仕した。
退職年金を多めに受給できるよう配慮してもらったのである。
天 寿
ついに理想の暮らしを手にした白居易は、七十巻本以降に詠んだ詩をまとめ、
会昌五年(八四五年)に『白氏文集』を七十五巻とした。
白居易の詩作の意欲は、いくら歳をとっても衰えない。
会昌六年(八四六年)三月に、廃仏毀釈で知られた武宗が急死し、
宦官らが叔父の宣宗(憲宗の子)を擁立した。
牛李の党争に倦んでいた宣宗が宰相に任じたのは、またいとこの白敏中であった。
「ついにわが家から宰相が——」
八月十四日、白居易は一族の悲願成就をみやげに、七十五歳の生涯を閉じた。
死後、かれは朝廷から尚書右僕射(宰相)(従二品)を追贈され、宣宗から「白居易を弔す」なる詩を賜った。
薄葬を遺命し、朝廷に諡号を願い出なかったものの、
宰相の白敏中が諡号を願い出て、「文」という最高の諡号を贈られた。
誉 聞
白居易の詩は、国境を越えて愛され、親しまれた。
むろん、日本も例外ではなく、菅原道真、清少納言や紫式部ら平安時代の文人たちに尊崇され、
『枕草子』や『源氏物語』をはじめとする平安文学に多大な影響を及ぼした。
龍門の東山(香山)にある白居易の墓陵を訪れる人の足は、いまも絶えることがない。
詩人として生前に博した白居易の人気は、千二百年の時を経てなお健在である。
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