名実一致をめざし、王莽に抗った気骨の宰相 何武(前漢)(2) 制度改革
何武は郷里の蜀から上京し、太学で学業を受けて『易』を修め、
射策甲科(上級官吏登用試験)に合格して郎(皇帝の侍従官)となったのち、
揚州刺史に遷任された。
部下に廉潔を求めた何武は、善を進め悪を退け、公正な態度で敬意をもってかれらに接した。
そのため、かれの治下において、揚州は平穏に治まった。
中国史人物伝シリーズ
目次
異 動
何武は揚州刺史を五年務めた後、朝廷に入って丞相司直(監察官)となり、
丞相(首相)の薛宣から敬重された。
その後、清河太守に出されたが、数年後、郡中に災害が多発したことで免ぜられた。
しばらくして、大司馬の王鳳の推薦で徴召され、諫大夫になった。
さらに、兗州刺史に遷任され、朝廷に入って司隷校尉(警視総監)となり、京兆尹(都知事)に徙った。
二年して、推挙した者が召見された際、跪拝しなかった罪に連坐して楚の内史(民政官)に左遷された。
その後、沛郡太守に遷任され、ふたたび朝廷に入り、廷尉(法務大臣)となった。
何武は仁厚な人がらで、好んで士を進め、人の善を称賛した。
楚の内史であったときには両龔(龔勝と龔舎)を、沛郡太守であったときには両唐(唐林と唐尊)を厚遇し、
廷尉になると、何武はかれら四人を朝廷に薦めた。
一方で、朋党をくむことをにくみ、文吏に関する事柄についてはかならず儒者の意見をきき、
儒者に関する事柄についてはかならず文吏の意見をきいて、たがいに参考にした。
官吏を任免しようとする際には、まずきまりをつくって請託を防いだ。
在任中、かれは任地で赫赫たる名声を得なかったが、任地を去ると、いつも思慕された。
御史大夫
綏和元年(紀元前八年)、成帝は在位二十五年にわたり帝位におわし、
趙姉妹を寵愛するなど女色におぼれながら嗣子がなかった。
そこで、弟の中山王劉興と甥の定陶王劉欣のどちらを太子に立てることを重臣に諮った。
丞相の翟方進と大司馬驃騎将軍の王根らは定陶王を後嗣に立てるよう主張したが、
御史大夫(副首相)の孔光だけが中山王を後嗣に立てるよう主張した。
成帝は趙姉妹の進言もあり、定陶王劉欣を太子に立てた。
中山王を推した孔光は廷尉に左遷され、何武が後任の御史大夫に任じられた。
制度改革
御史大夫になった何武は、仲のよい丞相の翟方進とともに名実一致を目的とした制度改革に着手した。
三公制
何武は御史大夫になると、つぎのような建言をおこなった。
「古は民は素樸、事は簡約で、国の輔佐には必ず賢聖を得ました。しかし、
それでもなお天に三光(日、月、星)があるように三公の官が備わり、おのおのの職務分担がございました。
いま、末世の俗の弊害として、政事が煩多で、宰相の材が古に及ばないのに、
丞相ひとりが三公のことを兼ねているから、政事が久しく廃れて治まらないのでございます。そこで、
三公の官を建て、卿大夫の任を定め、職務を分担して政を授け、その功績を考課されればよいかと存じます」
成帝はこれをいれ、御史大夫を大司空に改称するとともに、
大司空を列侯とし、俸禄を増して丞相と等しくした。
すなわち、大司空となった何武は、氾郷侯に封ぜられ、邑千戸を食んだ。
大司空の名称は、哀帝の御代にいったん御史大夫に戻されたものの、
その後、ふたたび御史大夫を大司空に改称された。
地方改革
また、何武の官制改革は、地方も対象とした。
漢初、諸侯王の国には、丞相以下朝廷と同様の諸官が備わっていたとおぼしい。
それが朝廷の中央集権化が進み、諸侯王の権限が細分化されるにつれて廃止されてゆき、
成帝の御代になると国相と内史の官が残ったのであるが、両者の職掌が重なってしまった結果、
国相が有名無実と化してしまっていた。
そこで、何武は丞相の翟方進とともにつぎのように奏言した。
「まえは諸侯王が断獄して政治をおこない、内史が獄事をつかさどり、国相が綱紀を総べて王を輔け、
中尉が盗賊に備えました。いま、王は断獄にも政治にも与らず、中尉が廃されてその職掌を内史が兼ね、
政治は郡国の守相に委任されております。それゆえ、信は一統され、百姓を安んじることができるのです。
いま、内史は地位が低いのに権勢があり、威も職も分を踰えており、
尊者に統べなければ治績をあげるのが難しゅう存じます。
そこで、国相を太守のようにし、内史を都尉のようにして尊卑の序にしたがい、
軽重の権を平らかにしていただきますよう請い願いたてまつります」
成帝はこれをいれ、王国の内史を中尉に改めさせた。
州牧制
また、何武は翟方進とともにつぎのように奏言した。
「古は、諸侯のなかから賢者を選んで州伯としました。
『書』(虞書・舜典)に、十有二牧に咨(はか)る、とございますのは、
広く聡明の士をさがし、幽隠(隠逸)の士を燭す(てらす)ゆえんでございます。
いま、部の刺史は古の牧伯の地位に相当し、一州を統治して大吏を選第し、
薦められた者は高ければ九卿に至り、にくまれれば退けられ、任は重く職は大でございます。
春秋の義によれば、貴を用いて賤を治め、卑をもって尊に臨むのではございません。
刺史は位は下大夫でありながら二千石に臨み、軽重が一致しておらず、席次の序列を乱してございます。
臣は、刺史をやめてかわりに州牧を置き、古制に応じますよう請い願いたてまつります」
成帝はこれをいれ、刺史を廃止して州牧を置いたが、哀帝の御代になると州牧をやめてふたたび刺史を置いた。
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