善は衆の主 苦悶の宰相 欒書(欒武子)(春秋 晋)(12) 政変
厲公は郤氏を滅ぼすと、寵臣の胥童らを高位につけ、独裁体制を布いた。
欒書や荀偃らは、小人にならぶことを恥じ、病と称して出仕をしなくなった。
それをよいことに、胥童らは厲公の寵愛を背に専横にふるまった。
そんななか、厲公が都から離れ、旧都の翼へ行幸したという報せに接した。
欒書はこれを好機とみて、荀偃と語らって厲公を襲う兵を挙げた。
中国史人物伝シリーズ
欒書(1) 邲の戦い
欒書(2) 善は衆の主
欒書(3) 揺蕩
欒書(4) 不戦条約
欒書(5) 苦悶
欒書(6) 内憂外患
欒書(7) 六間
欒書(8) 鄢陵の戦い
欒書(9) 福禄
欒書(10) 郤氏滅亡
目次
政 変
厲公が微行中で護衛をあまりつけていなかったこともあり、
欒書と荀偃の兵は、たいした抵抗も受けずに厲公を捕らえることができた。
「見張っておけ」
家臣から復命を受け、欒書はそう命じた。
欒書と荀偃は、厲公を翼で幽閉した。むろん、厲公を首都に連行するつもりなどない。
朝廷は、暗い雰囲気に覆われた。
厲公は君主として最悪であったかもしれない。それでも、国君弑殺は大逆である。
「ほんまにやるんですか」
と、恐る恐るたずねてきた荀偃に、
「重罪人を裁くのが、先じゃ」
と、欒書は、冷静な口調で返した。
この年(紀元前五七四年)の大晦日となる閏十二月乙卯(三十日)、欒書と荀偃は、
「君をそそのかして国家を混乱させた」
という罪状で、胥童を殺した。
こうなると、もはや厲公を輔翼する勢力など存在しない。
大 逆
明くる正月庚申(五日)、欒書と荀偃は、程滑という大夫を翼へ遣わし、厲公を弑殺させた。
厲公の屍体は、翼城の東門の外に葬られた。
このとき、わずか一乗の車を埋めただけであった。
葬送には、遣車という供え物を積んだ車を棺とともに埋める。
遣車の数は、諸侯は七乗と決められていた。
また、死者は本来城の北に葬るべきである。
これら礼式を犯した扱いから、欒書がいだいていた厲公への怨みの深さが推し測れよう。
公室の岐れにいる欒書が、主家の棟梁たる君主を弑すことに良心の呵責がまったくなかったかというと、
そうではなかった。
しかし、それ以上に、
暗君を廃してより良質な君主を立てて晋をすこやかな方向へ導いてもらいたいという気もちの方が優った。
晋という国を愛していたがゆえに、現状を憂えていたといえよう。
——厲公は徳がないのに功績が多く、服従する者が多かったがゆえに弑された。
『国語』(晋書六)に、そう記される。
奇しくも、士燮が危惧したように、鄢陵の戦いで挙げた勝利が、厲公の死を早めたきらいはあろう。
新 君
おのれを圧迫した三郤を除き、驕慢な厲公を弑し、気もちが晴れやかになった欒書は、
「もうひとつ、なさねばならぬ」
と、つぶやくと、主だった重臣を集め、
「どなたを君に立てるべきか」
と、たずねた。すかさず、
「孫周さまを立てるにしかず」
と、荀偃が応じた。
むろん、これは欒書の本意にかなっていた。
「いかがであろうか」
と、欒書が満座にたずねると、
「あいや、待たれい」
と、声が挙がった。満座の視線がある大夫に注がれた。
「孫周さまには、兄君がおられる」
「あのご仁は、菽(豆)と麦の区別さえできぬではないか」
荀偃がそう返すと、満座は失笑し、声の主は押し黙った。
「ほかに何かござるかな」
欒書は改めて問いかけ、異議なきことを確認してから、京師へ使者を発した。
第一声
「孫周さまがお帰りになられます」
という報せに接し、欒書は、
「さあ、新君をお迎えいたそう」
と、明るい声でいい、諸臣を引き連れ、国境の清原で孫周を出迎えた。
「孤は、もとはこうならないことを願っていた。それがこうなってしまったのは、天命であろう。
そもそも人民が君主を求めるのは、命令を出してもらおうとしてのことである。
擁立しても従わないのであれば、君主などいらないであろう。
なんじらがわれを立てるのも今日にはじまり、われを除こうとするのもまた今日にはじまる。
恭しく君主に従えば、神も福禄を与えるであろう」
まだどこかあどけない外貌を有する十四歳の新君が発した堂々たる第一声に、
――みごとなものだ。
と、欒書は心を打たれ、
「それこそわれらの願いでございます。ご命令に従わないことなどございましょうや」
と、いい、諸大夫とともに再拝稽手した。
致 仕
正月庚午(十五日)、孫周は諸大夫と盟ってから都に入り、大夫の伯子同の邸に泊まった。
そして、正月辛巳(二十六日)、孫周は武宮を詣で、君主になったことを報告した。
聴政の席についた孫周、すなわち悼公がまずおこなったことは、七人の不臣の放逐であった。
七人がたれかわからないが、
おそらく夷羊五ら厲公をそそのかして無道を働いていた者どもを追放したのであろう。
――新時代に、汚れた者は要らぬ。
肚を決めた欒書は、悼公に拝謁し、
「致仕のお許しをたまわりますよう」
と、願い出た。
これはただちに聴許され、欒書は十四年間にわたり務めてきた廟堂の首座から降りた。
――なすべきことは、すべてやった。
欒書は、清々しさの中にあった。
苦悩の宰相
欒書には君主を弑殺したという悪名がつきまとい、心証が悪い。
だが、かれへの評価は、厲公という暗君を輔佐する難しさを斟酌する必要があろう。
封建制にあっては、宰相の評価は、君主の器量に左右されるきらいがあるのは否めない。
かれにとって、厲公が君臨した八年は、苦悩の連続であったことは間違いない。
厲公を弑し、晋最後の名君と称される悼公を立ててなお権力の座にとどまろうという厚かましさをみせず、
後進に道を譲り、きれいに退いてみせた。
君主弑殺に後ろめたさをいだいたがゆえの行為なのであろうが、
かれなりの責任の取り方には清明な感じすら受ける。
暗愚な君主に振り回され、その寵愛を背に放恣の限りを尽くした三郤からの圧迫を受け、
窮屈な政権運営を強いられるなど微妙な立ち位置にありながら、
十四年ものあいだ権勢を保持できたことをおもえば、欒書は政治的な平衡感覚にすぐれていたのであろう。
――善が鈞しければ衆に従う。(『春秋左氏伝』成公六年)
――善は衆の主なり。(同上)
などの善言を発したことから察するに、
為政者として聴く耳を備えた慧性の人物というのが欒書の実像に近かったのではなかろうか。
シェアする