Blog ブログ

Blog

HOME//ブログ//中隠を志向した閑居の達人 陶淵明や李白とならぶ飲酒詩人にして平安文化の恩人 白居易(白楽天)(唐)(11) 酔吟先生

中国史人物伝

中隠を志向した閑居の達人 陶淵明や李白とならぶ飲酒詩人にして平安文化の恩人 白居易(白楽天)(唐)(11) 酔吟先生

白居易(10)はこちら≫

太和6年(832年)、白居易は前年に死去した元稹の遺族から墓誌文の依頼を受け、快諾した。

元稹の遺族は謝礼を贈ろうとしたが、白居易はことわった。

親友の墓誌文を書くのは当然のこととおもったからである。

しかし、どうしても謝礼を受けてもらいたいという遺族の熱意に折れ、

白居易はやむなく潤筆料として6、70万銭相当を受け取り、

——しかるべきところに寄付しよう。

と、心にきめ、寄付する先をさがすことにした。

中国史人物伝シリーズ

白居易(1) 寒門
白居易(2) 科挙
白居易(3) 仕官
白居易(4) 長恨歌
白居易(5) 順風
白居易(6) 貶謫
白居易(7) 琵琶行
白居易(8) 白堤
白居易(9) 蝸牛角上

目次

香山寺

白居易は、洛陽での中隠閑居の生活を堪能していた。
洛陽の長夏門から南へ十六里(約九キロメートル)ほどのところに、石窟で名高い龍門がある。
黄河の支流である伊水をはさんで東に東山(香山)、西に西山(龍門山)が対峙していて、
門のようにみえることから、
「龍門」
と、称されるその地を、白居易は何度か馬に乗って訪れた。
石窟がある西山に対峙する東山は、香り豊かな葛が生い茂ることから、
「香山」
と、称される。そこに、香山寺がある。白居易はそこの風光を愛し、通うようになった。
三百年以上前に建てられた伽藍は、すっかり荒れはててしまっていた。そこで、
「修復費用に充ててもらいたい」
と、白居易は香山寺に喜捨を申し出て、元稹の墓誌文で得た潤筆料を捨施した。
——ここに引っ越そう。
香山寺の僧と親交するうちに白居易はそう望みだした八月に、同い年の崔羣が亡くなった。
「微之(元稹)につづいて敦詩(崔羣)までも」
白居易はあいつぐ友の死に涙を流し、悲嘆にくれたあげく頭風にさいなまれるようになった。

巋然自傷

太和七年(八三三年)三月に白居易は頭風のため河南尹を罷め、
四月に太子賓客(正三品)分司東都にもどされた。
——やれやれ、やっと肩の荷がおりたわい。
ふたたび自由な時間を手に入れることができて、白居易がほっとしたのも束の間、
七月に、ともに吏部の試験に及第して以来三十年の友人であった崔玄亮(あざなは晦叔)が長安で亡くなった。
「微之(元稹)、敦詩(崔羣)につづいて晦叔(崔玄亮)までも——」
白居易はあいつぐ友の死を悲しんで、絶句を詠んだ。
(「微之、敦詩、晦叔、相次長逝し、巋然として自ら傷む」)
長夜 君 先ず去り(君が先に旅立ち)
残年 我 幾何(われの生命はあとどれくらい残っているのか)
秋風 満衫の涙(秋風が吹くなか、衣を濡らすほどの涙を流す)
泉下 故人多し(黄泉には、亡くなった友人が多くなった)

三 友

太和八年(八三四年)、洛陽に移ってから五年になり、白居易は詩を詠み、酒を嗜み、琴に耽る毎日を愉しみ、
「知らず天地の内、更に幾年活くるを得るかを。此より身を終ふるに到るまで、盡く閑日月爲らん」
と、詩に詠んでいる(『洛陽有愚叟』)。
——あとどれだけ生きられるのかはわからないが、旅立つまでは気のむくまま過ごそう。
かれはそう心に決め、また、そうできると信じていた。
七月に妻の兄である楊汝士が長安の東に位置する同州の刺史に、
劉禹錫が洛陽から近い汝州の刺史に任じられた。
そのため、劉禹錫との詩のやり取りがさらに増えていった。

同州刺史

太和九年(八三五年)、白居易は二十歳になった二女の阿羅を監察御史(従八品上)の談弘謨に嫁がせると、
長安新昌里の家を売却し、官界と訣別する意思を明らかにした。
そして、夏に『白氏文集』六十巻の編集を終えると、
詩を散逸せずに残すため、一本を江州廬山の東林寺に納め、他見無用の保管を依頼した。
四月、楊汝士のいとこの楊虞卿が京兆尹(都知事)となった。
しかし、かれをひきたててくれた宰相の李宗閔が貶されると、
讒言にあって虔州司馬、ついで虔州司戸に貶された。
流罪とおぼしい異動に失望した楊虞卿は、その年のうちに、任地で死没してしまった。
九月九日に白居易は同州刺史に任ぜられた。
この月に楊汝士が戸部侍郎(財務次官)に任じられて朝廷にはいったので、その後任とされたのである。
——政争に巻き込まれるのはかなわん。
と、おもった白居易は、病と称して拝命を辞退するとともに、裴度や楊汝士らに書を送り、
「後任には、汝州刺史の劉禹錫を——」
と、訴えた。
そのかいあって十月に白居易は太子少傅(正二品)分司東都に昇り、馮翊県侯に進められ、
同州刺史には劉禹錫が任じられた。
「楽天の後任になったわい」
辞令をうけてよろこんだ劉禹錫は、十二月に現地に赴任した。

酔吟先生伝

開成元年(八三六年)閏五月、白居易は、『白氏文集』六十五巻を完成させ、洛陽の聖善寺に納めた。
——身は死しても、詩は残る。
白居易にとって、詩は自分そのものなのである。
十月に劉禹錫は足疾により同州刺史を罷め、太子賓客(正三品)分司東都となって洛陽にもどり、
白居易とともに隠居暮らしをはじめた。
開成二年(八三七年)、阿羅が長女の引珠を生んだ。白居易にとっては、初孫の誕生である。
開成三年(八三八年)、白居易は、
詩酒の愉しみを通して理想の生活を手にいれた自身を描写した自伝『酔吟先生伝』を書きあげて、いよいよ、
——そろそろ後進に道を譲らねばならんか。
という心境になった。
またいとこの白敏中(白季康の子)は長慶元年(八二一年)に進士に及第し、この年に殿中侍御史になった。
弟の白行簡亡きいま、白敏中は白氏の希望をになっていた。

狂言綺語

開成四年(八三九年)に、白居易は、『白氏文集』六十七巻を編集し、以前
奉納した洛陽の聖善寺と廬山の東林寺に加え、かつて刺史を務めた蘇州の南禅院にそれぞれ一本ずつ奉納した。
その際に撰せられた『蘇州南禅院白氏文集記』に、
「願はくは今生の世俗の文字、狂言綺語の因を以て、転じて将来世世、讃仏乗、転法輪の縁とならんことを」
と、記した。
狂言綺語、すなわち詩歌は、仏教で禁忌とされる十悪のうちの妄語(うそ)と綺語(冗談)に当たる。
要するに、
「いままで詩を作るという罪悪を犯してきたが、
生まれ変われたならば仏法を讃嘆し、仏の教えを説いて広めてゆきたい」
と、懺悔をしたうえで祈願したのである。

SHARE
シェアする
[addtoany]

ブログ一覧