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中国史人物伝

建安の蕭何 曹操の絶大な信頼を受け、屯田制を成功させた初代典農中郎将 任峻(後漢)

「国家を鎮め、百姓を撫り、糧食を給して糧道を絶やさないことではおよばない」

漢王朝の初代宰相になった蕭何は、劉邦からそう評された。

それから400年後の『三国志』の主人公曹操にとって、蕭何に相当する人物はいたであろうか。

任峻(あざなは伯達)(?-204)

は、挙兵したばかりであった曹操の傘下に一族郎党を引き連れて入り、

蕭何がしたような役割を担った。

特に、初代典農中郎将として、

曹魏の特徴的な政策になる屯田制を成功させ、食糧を豊かにしたことは、

曹操が官渡の戦いで袁紹を破った最大の勝因であったといえよう。

かれがもう少し長く生きていれば、劉備や孫権が皇帝を名告れなかったかもしれない、

と想ってしまうのは、買いかぶりであろうか。

中国史人物伝シリーズ

後漢の蕭何 寇恂

目次

挙 兵

任峻は、河南郡中牟県出身であった。後漢末に董卓が専横をふるうようになると、
関東(関谷関以東の地)は震恐した。
中牟の県令であった楊原は愁え恐れ、官を棄てて逃げようとした。
そこで、任峻は楊原を説いてひきとめた。
「董卓が乱を起こし、天下で目を側めないものはございません。
それなのに、先頭立って決起する者がいないのは、その気がないからではございません。
董卓に太刀打ちできないとおもうているのです。
明府(県令)がもし口火を切られますれば、呼応する者がきっとあらわれましょう」
「いかがいたせばよいんじゃ」
「いま、関東には十余の県があり、兵士にできる者は万を下りません。
仮の河南尹(都知事)になられまして、かれらを集めて用いれば、うまくいかないわけがございません」
楊原はその計に従い、任峻を主簿(庶務課長)にした。
任峻は楊原を河南尹代行に任じてもらえるよう上奏するとともに、諸県に守りを堅めさせ、兵を挙げた。

曹操に帰属

中平六年(一八九年)に、曹操が決起し、中牟の県界に入ってきた。
付近で数多の者が挙兵していたため、人びとが戸惑い、
――たれに従えばよいか。
と、対応に苦慮するなか、任峻は同郷の張奮と話し合い、
「曹孟徳どのに属くにしかず」
と、判じ、河南郡をあげて曹操に属いた。
「ようきてくれた」
任峻らは、おもった以上に曹操から歓待された。
――乱れた世を匡してくださるのは、このお方をおいてほかにおるまい。
曹操に面会して、任峻はそう確信し、一族、賓客ならびに数百人の手勢を集め、
「わが一族郎党も、お供にくわえていただきとう存じます」
と、曹操に願い出た。
曹操はおおいに悦び、任峻を騎都尉(騎兵隊長)に任じるよう上奏してくれた。
そればかりか、任峻に従妹(いとこ)までめあわせれてくれた。
その気に入られようは、
――甚見親信(「魏書」任峻伝)。
と、正史『三国志』に記されるほどであった。
曹操が征伐にむかうたびに、留守を任された任峻は、軍の前線に切らすことなく物資を補給し続けた。

屯田制

民 屯

興平年間(一九四-一九五年)には、飢饉と旱害に見舞われ、軍糧が不足した。
戦乱で土地が荒れはて、人民が離散するなか、富国強兵を実現させるには、どうすればよいか。
この難題を解決すべく、羽林監(近衛部隊長)の棗祗が、
「流民を集め、耕作させましょう」
と、建言した。いわゆる、屯田制である。
棗祗が提案したのは、兵を辺境に入植、耕作させる軍屯とは異なり、
戦乱で荒廃し、地主が不在になった土地を国家が収め、流民を募って集団で入植させ、
農具や牛を貸与して耕作させ、収穫の五、六割を現物で納めさせる、というもので、民屯と呼ばれる。
折しも、建安元年(一九六年)、曹操は洛陽を追われて出てきた献帝を許に迎えた。
曹操の支配領域はいわば天下の中心であり、袁紹ら群雄に四方を囲まれている。
皇帝を保護した曹操が、名目ともに諸侯の盟主となるには、
荒廃した領地を復興させ、軍備を整えなければならない。
そのため、棗祗の意見を容れ、屯田制を採用した。
要するに、皇帝が荘園を経営するのである。

典農中郎将

国家の命運を左右しかねない政策を任せられるのは、信頼できる部下しかいない。
「屯田を管理してもらいたい」
任峻は、曹操からそう命じられ、典農中郎将に任じられた。
この官職は、屯田制の導入にともない、あらたに設けられたものである。
軍官のような官名ではあるが、実際は太守のように徴税や民政もおこなう行政官であった。
任峻は曹操の支配領域で流民を募って入植させ、耕作させた。
年を経るごとに田地は拡がり、収穫も増え、
数年のうちにいたるところで穀物が積みこまれ、倉廩はみな満たされるまでになった。
屯田からあがる税収は、府庫を満たすまでにいたった。

官渡の戦い

建安五年(二〇〇年)、曹操が十倍の兵力を有する袁紹と華北の主導権をめぐって戦った。
「なんじに輜重部隊の指揮を任せる」
任峻は、曹操からそう命じられた。
しかし、輜重部隊は袁紹軍にたびたび攻められて糧道を絶ち切られた。
――それならば。
任峻は兵車千乗を一部隊として、それを十列にならべ、さらに、その周りを兵に囲ませて進ませた。
こうなると、さすがに敵軍は近づくことさえできなくなった。
一方、曹操みずから烏巣の食糧貯蔵庫を急襲し、敵軍の食糧を焼き払った。
その結果、曹操は袁紹を破ることができた。
その勝因は、屯田政策が成功し、食糧が豊かになったからにほかならない。
「なんじは、わが蕭何じゃ」
軍需物資を豊かにした任峻のはたらきは曹操から高く評価され、上表して都亭侯に封じられ、
三百戸を食み、長水校尉(胡騎の指揮官)に遷任された。

寛厚有度

任峻は寛厚で度量が大きく、事理に通じていた。
飢饉の際には、朋友の孤遺(みなし児)を引き取って面倒を見たり、
親族で貧困に陥った人びとを助け、その信義を称賛された。
建安九年(二〇四年)に任峻が亡くなると、曹操はその死を惜しみ、久しく涕を流したという。

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